私がいつも配信している「ノー天気ラジオ」を聴いている人は、「この人きっと悩みとか何にもないんだろうな」と思うかもしれません。
確かに、今の私は「悩む」ということがありません。
ただ、だからと言って、「苦しむこと」がないわけではないのです。
そもそも、「悩む」というのは、苦しみの中で「いったいどうしたらいいんだろう?」と考える時に生じます。
つまり、「苦しみ」をどうにかしようとした時に、「悩み」というのは発生するわけです。
ですが、私は「苦しみ」が発生すると、「あ、苦しみが発生してるなー」とだけ思って、そのままそれを見つめることにしています。
そうしていると、「苦しみ」は徐々に形を変えていき、最後には溶けて消えてしまいます。
そういう意味で、私にとっては「苦しみ」というのは、「食事」したものを「排泄」するような
「生理現象」に近い何かになっています。
たとえば、何かの拍子に「苦しみ」がやってくると、私はそれを口に入れて味わいます。
もちろん、その味は「苦い」のですが、そのまま口の中で転がしているうちに「苦しみ」はだんだん溶けていきます。
そして、十分に小さくなったら飲み込んで、胃や腸の中へ「苦しみ」を送り込み、最後にそれは、身体から出て行って消えるわけです。
それゆえ、私にとって「苦しむこと」は、「苦い味の料理」を食べるようなものです。
「苦い」のは間違いないのですが、「あー、苦いなー」と思って食べていると、それは勝手に消えていきます。
また、私の日常生活においては、そういう風な「苦い料理」が滅多に「食卓」には出てこないため、たまに苦しむことがあると、物珍しさも手伝って、私はそのような「食事」をそれなりに楽しんでいたりもします。
つまり、「あー、苦しみが来たわ。今度はどんなゲテモノ料理なんだ?」という感じで、
一種の好奇心と共に「苦しみ」を迎え入れることができるわけです。
でも、世の中の多くの人は、「味の苦いゲテモノ料理」なんて食べたくなくて、
「とても美味しい豪華料理」ばかりを食べたがるものです。
それゆえ、仮に「苦い料理」が「テーブル」に並んでいても、ほとんどの人が「こんなもの食えるか!」と言って、「テーブル」ごとひっくり返そうとするわけです。
しかし、「食べなかった料理」というのは決して消えることがなくて、そのままその人の中に残り続けます。
つまり、食べることを拒否した「ゲテモノ料理」というのは、それによってなくなることはなく、そのうち再び「食卓」に並ぶようになるのです。
しかも、前よりも時間が経っているので、それは「腐敗」が進んでいます。
ただでさえ「苦い」というのに、その「ゲテモノ料理」はさらに「腐臭」まで漂わせるようになっていくわけです。
このため、誰もがそれを食べることを拒否し続けるようになります。
「こんなもの食えるか!」と言って押しやる
⇓
ますます「腐敗」が進む
⇓
余計に「腐臭」がして食べたくなくなる
多くの人が、こういった「悪循環」にハマってしまうわけです。
そうして、そんな「腐ったゲテモノ料理」で自分の内側がいっぱいになることで、その人の心もだんだん曇っていってしまいます。
当人は「清々しい解放感」を感じることができなくなって、いつも心に「重さ」や「濁り」を感じるようになっていくのです。
私は過去に自分の経験から、こういったメカニズムがよくわかっているので、たとえ「食卓」に「苦い料理」が並んでいても、決して食べずに押し返すということはしません。
なぜなら、「そういうことしていると、後でもっと苦しむことになる」と、私は知っているからです。
「苦しみ」という「苦い料理」もまた、「鮮度」が良いうちにパクパク食べてしまうに限ります。
そうして一度食べきってしまえば、それは消化されてなくなります。
また、その過程で自分が無意識に握りしめていた「理想」や「観念」も一緒に手放されることになるので、「苦しみ」が溶けて消えた後には、「清々しい解放感」が深まるのです。
こういったことが一度わかってしまうと、「苦しみ」がやってきた時、「どうしようか?」と迷うことがなくなります。
なぜなら、「ただそれを食べればいいだけだ」ということが既にわかっているからです。
人が「苦しみ」を前にして「悩む」のは、「どうしたらこの『苦い料理』を食べずに済ませられるだろう?」と考え始めるからです。
「食べずに済ませる方法」を探し始めることで、その人は「出口のない迷路」に迷い込むことになってしまうわけです。
実際のところ、「食べない」という選択肢は最初から在りません。
もし「食べること」を拒否し続けると、それは内側で「腐敗」していき、後で余計に苦しくなるだけです。
ひょっとしたら、そうして死ぬまで「食べること」を避け続けるのも可能なのかもしれませんが、たぶんそれによって、その人の人生全体は「苦悩」でいっぱいになるでしょう。
このため、逆説的なのですが、「苦しみ」を思い切って味わうことによって、かえって「苦しみ」から自由でいることができます。
なぜなら、「鮮度」が良いうちにさっさと「苦しみ」を食べてしまうことによって、それが後まで残らなくなるからです。
もちろん、誰しも「苦しみ」以外に「楽しさ」や「嬉しさ」などが「食卓」には並ぶこともあります。
ですが、そういったものは「美味しく食べること」ができるので、誰も押し返したりしません。
誰もがそれらを「鮮度の良い美味しい料理」として、ただ味わうだけです。
このため、「楽しさ」や「喜び」はすぐに消化されて消えていき、「苦しみ」だけが当人の中でいつまでも消化されずに残り続けます。
そして、このアンバランスが、その人の心を重く濁らせる元となるわけです。
なので、どこかのタイミングで、「苦しみ」とは向き合うしかありません。
時には、数十年にわたって「食べること」を拒否し続けてきた、「強烈なゲテモノ料理」が残っているかもしれないのですが、この世の誰も、当人に代わってそれを食べてあげることはできません。
人生というのは残酷なもので、「自分の苦しみ」は自分自身で苦しむほかないのです。
世の中の「スピリチュアル」を自称する人々や、「似非救世主」たちは、
「私があなたの苦しみを癒してあげましょう」と告げるのですが、そんなことは誰にもできません。
ナザレのイエスは、人々の「原罪」を償うために、磔にされて死んだことになっていますが、実際にはそんなことは不可能です。
なぜなら、たとえ「神の子」であろうとも、「他人の十字架」を代わりに背負うことなどできるわけがないからです。
誰もが、「自分の十字架」を自分で背負わねばならないのです。
ともあれ、「悩み」というのは、「苦しみ」をどうにかしようとしたときに発生します。
それゆえ、もしも「苦しみ」をさっさと食べてしまうなら、「悩む余地」など、どこにもありません。
ただ苦しんで、終わりです。
これが「内側の世界」の話になります。
それに対して、「外側の世界」においては、「具体的な問題」が発生することがあります。
たとえば「お金がない」とか、「いつも使っている機械が故障した」とかいった形で、「外側の問題」が発生するわけです。
そういう場合には、それらを解決する方法を、落ち着いて考えていきます。
物事の順序を整理して、「今の自分にできること」をリストアップし、「その中で最も有効そうな手段」をとりあえず試し続けるのです。
プランAがダメだったら、プランBに切り替え、それでもダメならプランCを実行していきます。
そうこうするうちに、最初は思いつきもしなかったプランDやプランEを思いつくようになっていくので、そのまま「次の一手」を試み続けていると、そのうち問題は解決できます。
つまり、「内側の苦しみ」については、ただ何もしないでそれを受け入れてしまえばよくて、
「外側の問題」については、落ち着いて考えつつ、「具体的な行動」を積み重ねたらいいわけです。
しかし人は、「外側の問題」を解決する際にも、「悩む」場合がよくあります。
「どうしたらいいんだ?!」「もう終わりだ!」と言っては、考えることができなくなり、そこから「具体的な行動」が起こせなくなってしまうのです。
先ほども書きましたように、「外側の問題」を解決するには、「具体的な行動の積み重ね」が必要なだけであって、「悩みこと」は別に必要ありません。
むしろ、そこで悩んでしまうことで、余計に「問題の本質」が見えなくなり、
「次に何をしたらいいのか」が見えなくなってしまいます。
ここにおいては、「悩む」のではなく「考える」ということが必要なのであって、別に苦しまなくてもいいわけです。
「外側の問題」を解決する時には、「踏むべき然るべき手順」というものがあるので、それをただ淡々と実行していけばいいだけです。
そういう意味で、「外側の問題」というのは、「パズル」みたいなものです。
落ち着いて考えながら、一つずつ「然るべき手順」を踏んでいくと、そのうちそれは「解決」できます。
それゆえ、「外側の問題」を解決することは、時に「楽しいゲーム」にさえなることがあります。
つまり、「このパズルをどうやって解いてやろうか?」と即興的に考えながら、それに取り組むことも可能なわけです。
でもそこで、「このパズルが解けないと自分はおしまいだ!」といったことを考えて「悩み」始めると、「パズルを解く手」が完全に止まってしまいます。
そうして「内側」では「苦しみ」を感じ続け、「外側の問題」はいつまでも未解決なまま残ってしまうことになるわけです。
たとえば、「お金がない」という時に、「自分はもうおしまいだ!」と思って「悩み」始めると、思考がフリーズしてしまい、「具体的に何をしたらいいか」が考えられなくなります。
そして、「具体的なアクション」を起こさないでいるうちに、状況はさらに悪化していき、ますます「問題」は深刻になっていってしまいます。
最終的には、その「外側の問題」は、ほとんど「解決不可能」なくらいまで複雑化してしまうことでしょう。
そう考えると、「内側の世界」においても、「外側の世界」においても、「悩む」ということは何の役にも立たないことになります。
要は「悩むだけ無駄」なわけです。
しかし、それでも人は悩みます。
そして、そこにこそ「悩む」ということの意味と価値とはあるのです。
「悩み」の中で人は迷い、苦しみます。
そうやって実際に深く悩むことによって、その人は「苦悩」というものについて理解していきます。
深く悩み抜くことを通じて、その人は「人間はなぜ悩むのか」を身をもって知り、「どうすれば悩むことなく、ただありのままに生きられるのか」を、自分の経験から学ぶのです。
それゆえ、「とことん悩んだうえでそれを突き抜けた人」というのは、「極限的な状況」においても迷うことがなくなります。
たとえどれほど追い詰められても、当人は「悩む」ということはしないで、「あくまで冷静に考える」ということができるわけです。
そういう意味で、「とことん悩み抜く」ということは、その人の「胆力」や「人間的な深み」を育てる「肥やし」になります。
実際、「人生で一度も悩んだことがない人」の言葉というのは「軽い」ものです。
そういう人がいくら口先で「何も悩む必要なんてないじゃないか」と言ったとしても、本当に深い「苦悩」の中にある人の心には、「浅薄な励まし」としてしか聞こえないでしょう。
ですから、もしも今、あなたが現に悩んでいるのであれば、何も「間違ったこと」は起こっていません。
もしもあなたが誠実に悩み続けるならば、その「悩み」がいつかあなた自身を育てる「肥やし」になります。
それゆえ、別に「悩んでいる自分」を否定する必要などないのです。
結局、「無駄なこと」は何もありませんし、「起こる必要のないこと」も起こりません。
もしも「悩み」が起こっているのであれば、それは「起こる必要」があるからこそ、現に起こっているのです。
今「悩み」があるなら悩みましょう。
どのみち、他に選択肢はありません。
「悩み」がある時、それをインスタントに解決しようとしても、結局「悩み」は取り除けませんし、むしろそれによってあなたは「浅薄な人間」になってしまいます。
「悩み」があるなら、とことん悩む。
そして、「もうこれ以上悩めない」というところまで行ったなら、その時、「悩み」というのは勝手に消えてなくなります。
そうしたら、後は、「内側の苦しみ」を受け入れて、「外側の問題」と現実的に向き合っていけばいいだけです。

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