最新刊である『「自己」を忘れて、「未知」を生きる』が販売開始されましたので、報告いたします。

これで、当ブログ発の書籍も七冊目になりました。
だいぶラインナップが揃ってきましたが、読むほうはなかなか追いつかないかもしれません。
無理して一気に読んでも消化不良になると思いますので、各自のペースに合わせて、楽しみながら読んでもらえればと思います。
なお、本書は、これまでにも何度か説明してきましたが、曹洞宗の道元禅師が書いた「現成公案」の解説本です。
「現成公案」は難解な文献であり、専門家の間でも解釈が分かれているようですが、私は自分自身んの探求の経験から、個人的に解釈をおこないました。
「自己をならう」とはどういうことか?
「自己を忘れる」とはどういうことか?
「万法に証せられる」という時の、「万法」とは何か?
「自己と他己の心身を脱落させる」とは、どんな生き方なのか?
そういったことを、あくまでも私自身の経験と身体実感から解説しています。
そもそも、「現成公案」のフレーズ自体は、十年以上前から知ってはいました。
ただ、いったいどういう意味なのかが、ずっと「謎」だったんです。
以前は、さっき書いたみたいな「自己をならう」とか「自己を忘れる」とかいったことが、いまいちよくわかりませんでした。
かといって、「解説書を買って理解しよう」とも思わなくて、そのまま放っておいたのですが、最近になって不意に「あ、そういうことだったのか!」と、全ての疑問が氷解しました。
今回の本は、私のこの「そうだったのか!」という気づきの「そう」の部分を言語化したものです。
そもそも、「そうだったのか!」と思った瞬間の私は、「全体の条理」を一瞬垣間見ただけで、詳しいことまではわかりませんでした。
ただ、「一瞬だけど全部わかった」という身体的な確信だけはあったので、その「ビジョン」に導かれるまま即興的に書いていきました。
結果的に、「ライブ感」のある文章になったのではないかと思います。
とはいえ、私は決して道元禅師のことを無批判に持ち上げているわけではありません。
本書の中ではあえて書かなかったのですが、私は道元禅師について批判的な考えも持っていて、それについては、過去に当ブログの記事でも一度書いたことがあります。
【関連記事】
【道元に対する批判】真の意味での「現成公案」を目指して
この記事で私が言いたかったことは、「道元禅師の言っていることは間違っている」ということではなくて、「道元禅師が晩年していたことは、彼自身がかつて書いた『現成公案』の内容に反しているように見える」ということです。
私は「現成公案」の内容については、自分自身で納得もいっていますし、むしろ私が探求の果てに達した理解と、深く共鳴し合っているようにも感じています。
ですが、その「現成公案」を書いた道元禅師自身は、後年になって「現成公案」の内容に反していることをおこなっているように、私の目には見えたのです。
そもそも、「現成公案」とは、「目の前に現れている真理」という意味です。
つまり、この文献は「日常の中に真理は既に現れている」ということを言っているものなわけです。
それゆえ「『どこか遠く』を目指して修行するのではなく、日々の生活の中で『自身の仏性』を表現して行け」というのが、「現成公案」の核となるメッセージだと私は理解しています。
しかし、後年の道元禅師は、「仏性を表現する方法」を「坐禅の実践」に限定してしまいました。
そして、「誰もがもっと坐禅をおこなうべきだ」という風に、これを強く推奨していきます。
ですが、「坐禅」をずっとおこないながら生活できる人はいません。
もし「坐禅」こそが「本当の意味での仏性の表現方法」なのだとしてしまうと、人々はかえって「真理」を生きることができなくなり、束縛されてしまうように私には思えます。
また、弟子の数が増えて数百人規模の僧団になった時、道元禅師は「清規」という規則集を書き始めました。
そこでは、ご飯の食べ方からトイレでの用の足し方まで、実に事細かに「修行する僧たちが守るべき規則」が規定されています。
私も、文庫本で出版されているものを買って少し読んでみたのですが、「食事中、この瞬間の手の位置はここ」とか、「僧堂に入る時の足は左足から」とか、かなり細かく決まっていて、ネットで調べたところによると、トイレで用を足す仕方については「終わった後に手を洗う回数」とかまで決まっているようです。
確かに、規則が何もないと集団が空中分解してしまう可能性もありますが、ここまでいくと「やりすぎ」ではないかと、私には思えます。
こんな風に「坐禅という形式」や「細かい規則」によって縛られてしまうと、「日常の中で仏性を表現しよう」と思う人はほとんどいなくなってしまうでしょうし、仮に「そうしよう」と思っても無理だと思います。
なぜなら、そこには道元禅師によって用意された「正解」が既に存在しており、そこから外れることが許されていないからです。
もちろん、人が生きていれば考え方や価値観が変わることもあるでしょう。
道元禅師にも何か考え方が変わるようなきっかけがあったのかもしれません。
ですが、「現成公案」で書いてあることは、まさにそのように「変わり続けることを恐れず、どこにも留まるな」という教えなのです。
にもかかわらず、後年の道元禅師は、世の中の人々に対しては「仏性の表現方法」を限定するように言い、弟子たちには「細かい規則」を守らせました。
これでは、まるで道元禅師自身だけが「正解」を知っていて、誰もがそれに従わないといけないかのようです。
しかし、そんな風に自分だけを特別視して他人に「正解」を押し付けることは、まさに道元禅師が「現成公案」の中で避けるように忠告した、「悟ったという意識に囚われた状態」なのではないかと、私には思われるのです。
というわけで、私は決して道元禅師を手放して持ち上げているわけではありません。
ただ、「現成公案」の内容には深く納得していますし、私自身はそれを、実際に自分自身の日々の生活で実践しているつもりです。
そして、できれば私は、後年の道元禅師のように、「現成公案」の内容に反することはしたくないと思っています。
「自分は既に悟った」という意識を消して、どこまでも「囚われのない自由」を表現し続けること。
それこそが、本当の意味での「現成公案」の実践であると私は思っています。
ということで、「私の目から見た現成公案」についてお知りになりたい方は、ぜひ読んでみてください。
また、一般に「悟り」と言われている段階までのステップを大まかに三つに分けて解説した上で、「悟った後の生き方」についても、かなり詳細に論じています。
それゆえ、本書には探求の過程で陥りがちな「ピット・フォール(落とし穴)」や、探求の節目で遭遇する「試練」についても記述しているので、現に探求をしている人にとっては、一種の「地図」として機能するでしょう。
それから、「真理の探求」に興味がない人に対しても、本書は「人間の精神的な成熟」についての論考として読む価値があるのではないかと思っています。
本書の途中では、道元禅師の言う「自己をならう」や「自己を忘れる」といった言葉の意味を、古今東西の哲人たちの思想でパラフレーズする(言い換える)試みもしています。
それゆえ、そういった記述をお読みいただければ、「人が本当の意味で成熟するというのはこういうことなのだ」と、納得してもらえるのではないかと思います。
というわけで、当ブログ七冊目の書籍である、『「自己」を忘れて、「未知」を生きる』の販売が開始されましたので、興味のある方はぜひチェックしてみてください。
それでは、よろしくお願いいたします。

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