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「覚醒」さえあれば、全ては「時間の問題」である|「自分がしていること」の自覚に至る道

私たちは、他人にアドバイスをしたくなることがよくあります。

そもそも人は、「自分の問題」というのは自覚しにくいものですが、「他人の抱えている問題」については、距離を取って観察することが容易です。

それゆえ、他人については「もっとこうしたらいいんじゃないか」ということが、比較的、見えやすいのですね。

それで多くの人はついついお節介を焼いて、「こうしたらいいよ」と言いたくなるのですが、相手がそれを必ずしも聞くとは限りません。

なぜなら、相手は相手で苦しんでいて、落ち着いて話を聞けないかもしれませんし、「偉そうなことを言って」と、内心で反発することもあるからです。

このため、たとえどれほど「的確なアドバイス」を与えたとしても、それが相手の役に立つことは非常に稀です。

どんなに「正しい言葉」であったとしても、相手に「受け取る準備」ができていないと、「暴力的な正論」にしか聞こえなかったりするものなのです。

こういう時、人によっては、「アドバイスした通りに相手に動いて欲しい」と考えることがあります。

その人は、「自分には相手の問題が見えていて、どうすればそれを解決できるかもわかっている」と思っています。

だからこそ、相手にアドバイスをするわけです。

でも、そうしてアドバイスをしたにもかかわらず、相手がなかなか行動を起こさないと、その人はやきもきしてきます。

「簡単じゃないか!誰が見ても問題は明らかだ!早く動けばいいのに!」と思ってしまうのですね。

たとえば、暴力的な恋人に依存してしまって、離れられなくなっている人がいた場合には、
「あんな人とは早く別れたほうが良いよ」と誰もが言うでしょう。

でも、当人はどうしても別れることができません。

なぜなら、その人には「恋人に依存するだけの理由」があるからです。

依存することによって得られる「安心感」が、相手からの暴力によってもたらされる「痛み」よりもまさっているように思えるからこそ、その人は別れることを選べなくなっているわけです。

この場合、「別れたほうが良い」というのは、確かに「正論」なのですが、別れるためには、まずその人が自立できるようになる必要があります。

要は、誰かに依存しなくても、自分で自分を満たせるようになることが必要なわけです。

それができるようにならない限り、その人は相手から離れることが怖くてできないでしょう。

なぜなら、もしも相手から離れてしまったら、その人は「安心感」を得る術を失い、深い不安と孤独を感じて、苦しむようになるからです。

ここにおいてその人は、「安心感を失う苦しみ」を避けるために、「暴力を振るわれる苦しみ」のほうをあえて選んでいるわけですが、結局、どっちに進んでも苦しみが待っています。

要は、八方塞がりなわけです。

でも、外からアドバイスをする人には、時としてそれが見えていません。

「暴力を振るわれるくらいなら逃げたらいいじゃないか」と思ってしまうのです。

ですが、実際のところ、当人の内側には葛藤があり、「逃げたくても逃げられない状態」に縛り付けられています。

そこにおいて必要となるのは、「相手から自立する勇気」なのですが、それは他人には与えることができません。

最終的には、当人が自分で決意して、「相手から離れること」を選ぶ必要があるのです。

もちろん、相手からの暴力が「致命的なレベル」に達している場合には、無理やりにでも引き離さないと命にかかわることもあります。

しかし、もしも当人の中で「自立の準備」ができていないと、いくら周りが引き離したところで、結局そのうち相手の元に戻ってしまうでしょう。

また、場合によっては、恋人から引き離された先で、「新たな依存相手」を見つけるだけかもしれません。

だからといって私は「依存してはいけない」とは思いません。

なぜなら、いくらそんなことを言っても、現に「依存せざるを得なくなっている人」は、怖くて離れられないのですから、「理想」を語っても意味がないのです。


私自身は「依存」というのは「必要なプロセスの一部」だと思っています。

実際、「依存せざるを得ない人」は、何度も何度も繰り返し依存し、あらゆる人や物に依存することを通して、少しずつ「自分が何をしているか」を学んでいきます。

依存する度に相手に振り回され、時には搾取され、傷つけられることを重ねながら、「依存する」ということがどういう結果をもたらすのかを、我が身でもって学ぶのです。

そうすると、どこかの段階でその人は、「依存は苦しみしか生まない」と気づきます。

ひょっとすると、その頃にはもう身も心もボロボロになっているかもしれません。

でも、そうして実際に身も心もボロボロにならない限り、人はなかなか変われないものです。

残酷なのですが、中途半端なところで救われても、その人の中の「依存心」は残ったままになりがちであり、形を変えて生き残るものなのです。

もちろん、もっと早い段階で「依存しても苦しいばかりだ」と気づくこともあるでしょうけれど、問題の根が深ければ深いほど、とことん絶望するところまで行かないと、当人はその気づきを受け入れることができません。

どうしても、「自分はまだ大丈夫だ」と思って、「依存すること」を繰り返し続けてしまうのです。


重要なことは、当人の中に「気づき」があるかどうかです。

依存を外から無理やりやめさせようとしても、そもそもそれは無理です。

たとえ「特定の相手」から引き離したところで、当人はまた「別な依存先」を見つけるだけです。

大事なことは、「依存すること自体が苦しみの元だ」ということに、その人自身が気づくことです。

そして、そのような気づきは、実際に依存を繰り返すことを通して苦しみ抜かないと訪れません。

「依存する⇒振り回され、裏切られる⇒苦しむ」というプロセスを、自分自身で何度もなぞることによって、その人の「覚醒」は徐々に深まっていきます。

つまり、そのようなプロセスを経ることによって、その人は「自分自身の苦しみのパターン」が見えるようになっていくのです。

そうして、自分に特有の「苦しみのパターン」が見えてくるようになると、少しずつ落ち着いてものを考えられるようになってきます。

そこに至ってようやく当人は、「なぜ自分はこんな目に遭っても依存せずにいられないのだろう?」と自問し始めることでしょう。

そのようにしてその人は、自分自身が抱える「問題の根」を探り始めます。

「新しい依存先」を探すのでもなく、「依存をやめなければ」と強迫的になるのでもなく、
ただ静かに落ち着いて「自分の内側」を観るようになっていくのです。

そしてこれが、その人にとっての瞑想となります。

それは「依存すること」を通した瞑想です。

当人は、実際に依存して苦しみ、その苦しみを味わうことを通して、自分の抱える「問題の根」について内省し始めます。

他人からのアドバイスがもしも役に立つとするなら、少なくとも当人がこの段階まで至っている必要があります。

当人の中でここまで瞑想が深まっているようであれば、「考えるためのヒント」を小出しにするくらいなら、おそらく役に立つでしょう。

「出来上がった答え」を与えるのではなく、あくまで当人の内省を手助けするだけに留める。

そういった節度を保てる伴走者であれば、当人の助けになれると思います。

いずれにせよ、必要となるのは、その人自身の気づきです。

「自分がやっていること」に対する気づきがなければ、「依存は苦しみしか生まない」ということにも気づけませんし、このことにはっきり気づかない限り、「自発的な内省」は始まりません。

そして、「自発的な内省」を経ない限り、その人が「自分自身の問題」と直面することはありませんし、「問題」を直視しない限り、「自立」することはできないのです。

それゆえ、私は「現に依存している人」を「間違ったことをしている人」とは思いません。

そうではなくて、「自立に至る過程にある人」と見ます。

実際、「依存している人」というのは、「間違ったこと」をしているわけではなく、
「然るべきこと」をしているだけです。

なぜなら、「依存するだけの理由」がある人が依存するのは、ある意味において必然だからです。

そこにおいて、依存は起こるべくして起こります。

いくら「間違っている」と言って断罪しても意味がありません。

なぜなら、当人の中にはまだ「依存は苦しみしか生まない」という気づきがないからです。

理解は「苦しみ」から産まれます。

実際に苦しむことを通して人は気づき、自分について理解するのです。

それゆえ、「依存すること」さえもが、その人にとっては「必要な瞑想の一部」です。

その人は、実際に依存して苦しむことを通して、「自分だけの瞑想」を深めていくのです。


ただ、そうは言っても、「何もかも放っておけばいい」とは私は思いません。

少なくとも、「当人の気づき」を強めることには、意味があると私は思っています。

つまり、「依存をやめなさい」と言うのではなく、「もっと気づきなさい」と告げるのです。

具体的には、自分の心や身体に生じる感情や感覚に対して、蓋をしないでより深く感じるように促していきます。

言い換えれば、よりいっそうその人が活き活きするように導くのです。

そうすれば、気づきは結果的に成長していきます。

当人の感受性は鋭敏になり、自分自身に対しても、細やかな気づきを向けられるようになるでしょう。

そうなったら、後は「時間の問題」です。

遅かれ早かれ、当人の中で「依存は苦しみしか生まない」という気づきが起こります。

他人にはそれを起こすことができませんが、もしも当人の「覚醒」が十分に育ったら、気づきは起こるべくして起こるのです。

また、そのようにして「起こるべくして起こったこと」にこそ、その人自身を変える力があります。

逆に、「起こるだけの準備」がまだできていないのに、外から無理やり起こした変化は、当人のことを深いレベルでは変容しません。

当人は、「表面的な振る舞い」だけは変えるでしょうけれど、深いところでは以前のままです。

人を本当に変えるのは、「起こるべくして起こった気づき」です。

それは、当人の中で瞑想が深まり、「自分の問題の根」を明確に理解できた時に自然と引き起こされるものなのです。


私はよく、ブログの文章の中で「私に寄りかからないようにしてください」と言いますが、いくらそう言っても、寄りかかる人はいるでしょう。

でも、それならそれで、そのような「寄りかかり」もまた、その人にとっては「必要なプロセス」です。

なぜなら、「寄りかかることによってどんな結果がもたらされるか」は、実際に寄りかからないと学べないからです。

だから私は「寄りかかっている人」のことを、「間違ったことをしている人」とは思わずに、「必要なことを学んでいる最中の人」として見ます。

ただし、そこには気づきがないといけません。

実際、「寄りかかったまま眠りこけている人」というのは、何十年経っても何も学ぶことがないでしょう。

そういった人というのは、何の葛藤も問題意識も持たないまま、いつまでも寄りかかり続けるはずです。

必要なのは気づきです。

気づきがないければ、人は何を経験しても何一つ学ぶことができません。

逆に言えば、もしも気づきがあるならば、その人は人生の全てから学びます。

私が身体の感覚を育てることを推奨し、心と向き合う道を説き、瞑想の実践を重視するのは、ひとえにこのためです。

もしも気づきがあるならば、「教師ティーチャー」はもはや不要になります。

その時には、この世の全てが「マスター」となり、その人に教えを授けるでしょう。

そもそも、私たちは皆、人生という名の「大きなプロセス」の中にいます。

もしもそこに「唯一絶対のゴール」が在ると考え始めるならば、まだ「ゴール」に至っていない人は、皆「間違っている」かのように見えてしまうはずです。

しかし、実際には誰も「間違って」などいません。

実際には、誰もが「学びのプロセス」に在るだけです。

依存する人も、反抗する人も、暴力行為に手を染める人も、
みんな「そうするだけの必然性」が内に残っているからこそ、そうした行為を繰り返します。

それが「カルマ」というものです。

「業」は、徹底的に気づきを向けて、深く理解した時にやっと消えます。

「自分が何をしているか」を自覚し、「その行為の結果として何がもたらされるか」を知り抜いた時、「業」というのは自然と消滅するのです。

だから、必要なのは「覚醒」だけです。

「覚醒」があれば、自分が「愚かなこと」をしている時にはそれに気づき、自分が「罪」を犯した時には贖罪しょくざいの意識が自然と芽生えます。

もし気づきが伴っていないまま「自分は愚かだ」と思っていると、それは「不必要な自己否定」となって、当人を束縛するだけでしょう。

本来、「自分は愚かなことをしている」というのは単なる事実であって、ただそのまま認めてしまいさえすれば、わざわざ自分を責める必要はありません。

また、もしも気づきが伴わないまま「罪」を自覚させようと思っても、その人の反省は形だけになります。

当人の反省も贖罪も、外側の他人には強制することができません。

それらが真に自発的で心からのものとなるためには、当人が「自分のしたことの意味と重さ」にきちんと気づく必要があります。

そして、そういった「重さ」を十字架として背負うことを自分自身で決めた時、その人の生き方は初めて根本的に変わるのです。

それゆえ、「覚醒」こそが全てです。

「覚醒」さえあれば、全ては「時間の問題」に過ぎなくなります。

そうして「起こるべきこと」は自ずから起こり、人はどこまでも成長し続けます。

「ゴール」はどこにもありません。

誰もが「旅」の途中です。

「自分だけの旅」の途中なのです。

そして、他人は誰も、それを代わりに歩いてはくれません。

しかし、それはとても良いことです。

なぜなら、もしも他人に代わってもらうことができてしまうと、人は「自分の人生」から何も学ぶ必要がなくなってしまうからです。

誰もが「自分にとっての学びのプロセス」にあります。

「間違っている人」は存在しません。

誰もが「正しい学び」の途上に居ます。

必要なのは気づくことです。

もしも気づいているならば、「自由」はいつか起こります。

そうしてそこからその人は、「自由」を再び失わないよう、気づきと共に生きていきます。

その人はどこまでも学び続け、どこまでも「自由」で在ろうとするでしょう。


私は全ての人に「自由」で在ってほしいと思っています。

ですが、そのためには気づきが必要です。

「何が自分を縛っているか」を、自覚することが必要です。

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