私たちの「根源的な不安」というのは、「わからない」ということから来ているのではないかと思います。
「未来がどうなるかわからない」
「他人が何を考えているかわからない」
「自分はどう生きたらいいのかわからない」
こういった「わからなさ」が怖くなる時、私たちは無意識に自分の周りに「城塞」を築き始めます。
一番簡単で多くの人がおこなっているのは、お金を稼いでそれを蓄えておくことです。
確かに、お金がたくさんあれば、そのぶん安心できる気がします。
実際、突発的な問題が持ち上がっても、お金がストックしてあれば、それを解決できる可能性は大幅に上がると思います。
ただ、逆に「未来がどうなるかわからない」という気持ちが強すぎて、お金にしがみつく場合もあります。
そういった人は、お金をたくさん用意していても不安になり、もしもお金が手元になくなってしまうと、恐怖のあまりパニックになってしまうでしょう。
また、地位や権力によって「城塞」を築く人もいます。
そういった人は、確固とした地位や権力を手にすることで、「不測の事態」に対処できるだけの地盤を得ようとし、「理解不能な他者」を力ずくで従えてコントロールしようとし始めます。
そうすることで、「わからなさ」と直面することを避けようとするわけです。
逆に、地位や権力のある人間に徹底的に隷属することで、守ってもらおうとする人もいます。
そういう人は、自分の主体性をあえて捨てることで、「安全圏」の中に入ろうとします。
そして、それによって、「自分は何も間違っていない。この人に従って何もかも任せていればいいのだ」とだけ考えて、思考停止したまま、「わからなさ」から目を背けようとするのです。
そして、人によっては、知識や技術を身に着けることで「わからなさ」を駆逐してしまおうとします。
自分の理解を深め、技量を高めることによって、「自分にはもう全てわかった」という感覚を、確固としたものにしようとするわけです。
反対に、そういった自己成長自体を完全にストップさせてしまって、「今の自分」にしがみつこうとする人も多いものです。
つまり、今の自分から見える景色や、今の自分の考え方、価値観や生活習慣などを固定化し、「明日の自分」を予測可能なものにしてしまうわけです。
そうすれば、「未来がわからない」という不安から解放されますし、「他者とのかかわり方」もパターン化して処理してしまえます。
これによって、どんな問題に出くわしても、無感覚なまま「いつもと同じ仕方」で物事を処理すればよくなるので、当人は「わからない」という事実と直面しなくて済むのです。
こういった私たちの努力は全て、「この世界のわからなさ」から目を背けるためのものです。
つまり、私たちには「わからない」という状態に長く留まることができないのです。
実際、人はどうしても「わからないこと」を「既にわかったこと」にしたくなります。
「それはもうわかった」と感じることができると、人は安心して落ち着きます。
その人にとって、世界は今日も「いつも通り」です。
そこに「予見不可能なこと」はなく、「対処が困難な問題」もありません。
これまで通り、パターン化して処理してしまえばいいだけです。
ですが、何かの加減で、当人が周囲に築いている「城塞」が崩れると、その人は急に心細くなって不安に囚われます。
たとえば、蓄えていたお金が突然減ってしまったり、
地位や権力を失ってしまったり、
頼りにしていた後ろ盾がなくなったり、
自慢の知識や技術がまるで通用しなくなったり、
いつまでも思考停止していることに限界を感じ始めたりした時などに、
その人は、もう一度「わからなさ」と直に接触します。
「未来がどうなるかわからない」
「他人が何を考えているかわからない」
「自分はどう生きたらいいかわからない」
そもそも、こういった「わからなさ」は、もともと私たちの人生全体を構成しているものなので、もしも「城塞」に少しでも綻びが生じると、人は必然的に「わからなさ」と接触することになります。
人によってはそれは「ものすごく恐ろしいこと」として感じられるため、パニックになってしまう場合もあるでしょう。
パニックまではいかなくても、「城塞」が崩れ始めている人は、「漠然とした不安感」に、日々苛まれるようになっていきます。
要は、何が原因だかわからないけれど、どうも不安で落ち着かなくなるのです。
この不安は、かつて原始時代の人類が「暗闇」を恐れていた時に感じていたのと同じ、
「根源的な不安」です。
その根っこは、「わからない」ということから来ています。
つまり、「何か理解できない物事がある」ということこそが、こういった不安を生んでいる元なのです。
だからこそ人類は、あらゆるものを「わかろう」としてきました。
「暗闇」があるなら「光」で照らそうとし、「謎」があるなら、それを解こうとしてきたわけです。
こうして、今の私たちの社会は夜になっても明かりで満たされ、ありとあらゆる情報が溢れかえるものになっています。
しかし、それでも私たちの中の「原初的な不安」はそのまま残っています。
それは、「わからない」という不安です。
「未来を確実に予測したい」
「他者を完璧に理解したい」
「人生を間違うことなく生きていきたい」
そういった願いが、これらの不安を作り出します。
逆からいうと、
「未来を予測するのは不可能だ」
「他者へ永遠に謎のままだ」
「人は間違うからこそ成長するのだ」
そんな風に思えるならば、こういった不安は消えていきます。
つまり、「わからない」ということを、どうにかして「わかろう」とするのではなく、「わからなさ」の中にそのまま身を任せてしまうわけです。
ただ、それは最初、とてつもない恐怖を呼び起こします。
人は思わず尻込みし、重心が後ろに引けて、肚は充実感を失ってスカスカになります。
要は「ビビって」しまうわけです。
それゆえ、ほとんどの人は、こういった「わからなさとの接触」を前にすると、
必死で「新しい城塞」を作ろうとし始めます。
「わからないこと」を「わかったこと」に変えるために、必死で「鎧」を身につけようとするのです。
でも、もしもそこであえて「裸」のまま、「わからなさ」にずっとさらされていると、だんだんと恐怖や不安が和らいできます。
「わからない」ということが、怖くなくなってくるのです。
すると、どこかの段階で「天秤」が逆方向に振れ始めます。
それまで、「わからなさ」をどうにかするために必死で「わかろう」としていたのが、むしろ、「わからなさ」をそのまま楽しみ始めるのです。
実際、私たちは「わからない」からこそ、ワクワクするものです。
「未来がどうなるかわからない」からこそ、「新しい今日」が楽しみになり、
「他者が理解できない」からこそ、「新たな出会い」から常に学び、
「どう生きるのが正解か決まっていない」からこそ、私たちは「自由」であることができます。
そういう意味では、「わからない」ということこそが、
私たちの人生を彩ってくれる「必要不可欠な前提」なのです。
実際、お金を貯めて、安定した職場で働けば、未来は「予測可能」になるかもしれませんが、たぶん当人は徐々に退屈してきます。
また、「この人のことはもうわかった」と思い込んでしまったら、私たちは相手から何も学べなくなります。
そして、もしも「人生の正解」が最初から決まっていたら、私たちは迷うことがなくなるかもしれませんが、その時、生きることは「決まったレールの上をただ走ること」になってしまうことでしょう。
ですが、「今日」はいつだって手つかずで無垢なままであり、たとえ「見知った家族」でさえ、よくよく見れば「いまだに理解できないこと」だらけです。
そうして、だからこそ、「生きる」ということは常に新鮮なのであり、私たちは「瑞々しさ」を失わないでいられるのです。
しかし、もしも「わからなさ」を駆逐するために「城塞」を築き始めると、その人は「城塞を失うこと」を恐れるようになっていきます。
その人は「お金を失うこと」を恐れ、「仕事を失うこと」を恐れ、「他人から見離されること」を恐れます。
ですが、その人の根底にある「より根源的な恐れ」というのは、「わからなさ」に根を持っているものです。
つまり、本当は「わからない」ということが怖かったからこそ、その人は「城塞」を築き始めたのです。
にもかかわらず、一度「城塞」を作ってしまうと、その人は「わからないこと」自体を直接恐れることはなくなって、「城塞が崩れること」のほうを心配するようになります。
つまり、「根源的な恐れ」から目を逸らすために作った「城塞」にしがみつくことで、その人の感じる恐れは「二次的な恐れ」になってしまうわけです。
繰り返しますが、その人が本当に恐れているのは、「わからない」ということのほうです。
しかし、当人の主観ではそれを自覚することができません。
当人は「なんでかわからないけれど不安」なので、
お金を必死で集めたり、地位や権力にしがみついたり、知識や技術を強迫的に蓄えたりします。
そこにおいて、その人は「わからないことが怖い」という「根源的な恐れ」に触れることができなくなり、この「根源的な恐れ」に触れなくて済むための「鎧」を失うことのほうを恐れているわけです。
このため、当人は「自分の恐れの正体」を見誤ったまま、必死で走り続けます。
その人は、理由を自覚できないまま、あらゆるものにしがみつき、絶えず心身を束縛されることになるでしょう。
それでいて、なぜ自分がそうせずにいられないのかを、理解することができないのです。
ただ、もしも「城塞」も「鎧」も捨て去って、「わからない」という事実の中に留まるなら、「本当の恐れ」がやってきます。
それは、何か別のものにすり替えられていない「本物」です。
「金や仕事や地位を失うことへの恐れ」というのは、あくまで「二次的な恐れ」であり、ある意味においては「偽物」ですが、もしもそういった「偽物」を全て剥ぎ取ると、奥から「本物」が出てくるわけです。
その時、人は「根源的な恐れ」と面と向かうことになります。
そこにおいては何もかもが「理解不能」であり、「予測可能な物事」は一つもありません。
だからこそ、人はパニックになりそうになります。
しかし、それでもたった一つだけ「絶対確実なこと」があります。
それは、「自分は存在する」ということです。
たとえ明日が予測できなくても、
他者を理解することができなくても、
正解が何かわからなくても、
私たちはそんな「わからなさの海」の真ん中に、あいかわらず「一つの孤島」として浮かんでいます。
「わからなさ」は自分の全身の皮膚にまとわりついており、そのただ中で、その人はパニックになりそうになっています。
ですが、それでも「わからなさ」が侵入して来れない「一点」があるのです。
それが「自分は存在する」ということです。
たとえこの世の全てが夢幻でも、あらゆることが理解不能でも、私たちは「それでも自分は存在する」ということだけは、絶対に確認することができます。
なぜなら、もし仮に自分の存在を否定しようとしても、そうやって現に否定しようしている自分が、そこにはちゃんと居るからです。
このため、「自分の存在を否定しようとしている」というまさにそのことが、「自分の存在」を証明することになるわけです。
哲学者のデカルトは、これを「コギト」と呼んでいましたが、これだけが「絶対確実なこと」であり、ある意味で、私たちにとっての「唯一の足場」です。
ただ、デカルトは「この足場」にそのまま留まっていることができなくて、結局、哲学的な理論という「城塞」を作り上げ、そこに閉じこもってしまいました。
それほどまでに、「自分は存在する」という「一点」に留まり続けることは、容易でないということです。
ですが、「瞑想」というのは、この「容易でないこと」を日常そのものにしてしまう試みでもあります。
「この世の全てがわからない」という時に、「それでも私は在る」と言い続けること。
それが、「瞑想」です。
そこにおいては、「私は在る」ということ以外、全てが「不確実」です。
唯一「確実なこと」は、「私は在る」ということだけです。
そして、「でもまぁ、別にそれでもいいか」と思えるかどうかが、「瞑想者」にとって重要になります。
あなたはそんな風に思えますか?
「自分の存在」以外に何一つ寄りかかれるものがなく、
常に「自分の足」で立ち続けなければならない時、
「それでもいい」と思えるでしょうか?
もしも「そうは思えない」というのであれば、まず「絶対確実なこと」を確かめてください。
それは、「家のガス栓を閉めたかどうか」を何度も強迫的に確かめることではなくて、
ただ「自分の内側」を見ることです。
「絶対確実なこと」はそこに在ります。
というか、そこにしか在りません。
そのことに気づいた時、「最も根源的な恐れ」は徐々に消え、代わりに「ワクワクするような感覚」が現れ始めます。
「何もかもがわからない」
だからこそ、この世界は「驚き」で満ちています。
「新たな出会い」で満ちています。
そして、「新鮮な気持ち」で今日を生きるためには、「自分で作った城塞」の中に閉じこもることなく、「生身の肌」をさらす勇気が必要です。
それは最初怖いことかもしれませんけれど、空気が肌に直接触れるのは、とても心地が良いものです。
その時、「未知」を通してあなたの皮膚は呼吸し始め、あなたは「活力」を取り戻します。
そうして「生きている」ということの味を、あなたは再び思い出します。

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