悟ることができるのは「傑出した人物」だけなのか?探求とは「究極の平凡さ」へ向かう旅である

前回の記事で私は、「全ての覚者が常に『知的』であるとは限らない」と書きました。

「覚者」を見分ける二つの基準|「雄弁な無知者」と「口ごもる知者」のパラドクス

「覚者というのは深い叡智を宿した人であり、必ずや知的で学識のある人のはずだ」と思っていた人は、ひょっとすると驚いたかもしれません。

また、他にも「覚者というのは非凡で傑出した人物だ」という風に思っている人が、世の中には多いかもしれません。

実際、過去に現れたゴータマやイエスといった人々は、他の誰とも違っていて、だからこそ歴史にその名が刻まれることになったわけです。

しかし、実際のところ、覚者というのは必ずしも「傑出した人物」とは限りません。

前回の記事で書いたように、「知的に優れている」とは限らないというだけでなく、「人格的に優れている」かどうかも、覚者によります。

もちろん、人格的にも優れた覚者はいるでしょうし、そういう人はむしろ「聖者」と呼ばれるのではないかと思います。

ただ、「覚者であれば必ずどこにいても頭角を現し、人々から尊敬されているはずだ」と考えるのは、単なる思い込みだったりします。

むしろ、覚者というのは「自分の平凡さ」の中でくつろぐことができるようになった人のことです。

だからこそ、私は前回の記事で、「ある覚者がスーパーでレジ打ちのアルバイトをしていても、全く不思議ではない」と書いたのです。

しかし、「自分の平凡さ」の内でくつろぐというのは、いったいどういうことでしょうか?

今回はこのことを書いてみたいと思います。

「早く何者かにならなければ…」と考えて焦燥感に苦しんでいる人に対しては、何かヒントを提供できるかもしれません。

では、始めていきましょう。

◎「自我」の言葉に従う限り、人はどこまでも走り続ける

先ほども書きましたように、覚者というのは「自分の平凡さ」の中にくつろぐことができるようになった人です。

それは言い換えると、「『自我』が沈黙している人である」ということです。

そもそも、なぜ多くの人たちが「自分の平凡さ」を受け入れられないかというと、「自我(エゴ)」が絶えず当人をせっつくからです。

「自我」はいつもこのように言います。

「もっと何かを成し遂げろ」
「他の誰とも違う『特別な個人』を目指し続けろ」

「自我」はこのようにささやいて、当人の中に「満たされなさ」を作り出し、「それを埋めるためにもっと走れ」を要求してきます。

そして、私たちは往々にして、「自我の欲求」こそが「自分の欲求」であるかのように思い込んでいます。

実際、努力に努力を重ねて、何かの目標を達成すると、当人は「達成感」と「充実感」を味わうことができます。

「自分はついにやった!やってやったぞ!」と思うわけです。

しかし、それはあくまで「自我の喜び」です。

何らかの目標を達成したり、得がたいものを手に入れた時、「自我」は喜びに打ち震えます。

ですが、私たちの存在の本質は「自我」ではありません。

私たちは本来、「ただ観ている者」であり、「意識」なのです。

【第7回】世界はなぜ「この自分」からしか見えないのか?「意識」の謎について

【第12回】「瞑想」の第四段階《理論と実践》|「自我」は「虚構」に過ぎないと理解する

私たちのとっての本当の「自己」は、「自我」が何を得ようと変わりません。

たとえ他人から認められようと、反対に他人から否定されようと、それによって私たちの「本質」は一切影響を受けないのです。

しかし、もしも当人が「自我」と「自己」とを混同していると、「自我」が認められると「自分」まで認められた気がして嬉しくなったりします。

また、「自我」が否定されて傷つくと、あたかも「自分自身」が否定されたかのように感じて苦しむのです。

◎覚者は「自我」の声を聞くより、「我が家」でゆっくりくつろごうとする

それに対して、覚者は「自我」と「自己」が別のものであるということを知っています。

そして、そのように「本来の自分(自己)」が「自我」とは別のものであると知っているからこそ、覚者は「自我」が何を得て何を失おうとも、一切気にかけないのです。

そのため、覚者は「自我」がたとえ何をささやいても、それを真に受けたりしません。

「もっと有名になれ」
「他人を押しのけて自分の存在を証明しろ」

悟ってから日の浅い覚者の場合、「自我」があいかわらずそのように言うかもしれませんが、覚者はそういった言葉に影響されることがないのです。

覚者は、たとえ他人を押しのけて有名になったとしても、それによって満足するのは「自我」だけであって、「自己」はそれとは関係ないと知っています。

そして、多くの人たちが「自我」に促されてどこまでも走り続けている「成功追求のレース」から、当人は進んで降りていきます。

なぜなら、覚者からすると、成功を追い求めて走り続けるよりも、「我が家」でのんびりリラックスしているほうがずっといいからです。

実際、「何もしないこと」の中でくつろいでいると、当人は「穏やかな解放感」を感じることができます。

この「解放感」は、瞑想の世界では「サマーディ」と呼ばれ、仏教の世界では「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」と呼ばれているものです。

それは、もはや求めるものがなくなり、ただ「ありのままの自分」にくつろぐ時に、当人の内側から花開いてくるものです。

覚者はみんな、この「幸福感」を知っています。

それゆえ、いたずらに「自我の満足」を求めて走り回ったりはしません。

なぜなら、「そんなことをしても、自分の心身を磨り減らすことになるだけだ」と、当人にはわかっているからです。

このため、覚者は有名になろうとも思いませんし、他人を押しのけようとも思いません。

ただ、「そのままの自分でよい」と思っています。

「自身の非凡さ」を世界に向かって証明しようとは思っておらず、むしろ、「平凡な自分」の中でくつろいでいるのです。

そして、それゆえに、場合によっては、「社会的な地位が低い覚者」というものも現れることがあり得ます。

たとえば、辺境の牛飼いが「真理」を悟ることもあるでしょうし、名も無き百姓が「真理」を悟ることもあるかもしれません。

そう言えば、ヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』には、無学な川の渡し守であるヴァズデーヴァが、主人公であるシッダールタの師となり、彼を悟りへと導くシーンが出てきます。

もちろんこれは創作ですが、こういったことは実際にたくさんあったのではないかと、私は思っています。

なぜなら、「悟り」というのは本来、「当人が何者であるか」ということとは、一切関係がないからです。

◎「自身の平凡さ」の中でくつろいでいる人のことを許せない人たち

ただ、私がそのように思うことができるようになったのは、自分自身で「真理」を理解できた後のことでした。

私も「真理」を理解する前は、「悟るためには多大な努力が必要に違いない」と深く思い込んでいたのです。

だからこそ、「それ相応の資質と才能がなければ、『真理』を理解することはできないはずだ」とも私は考えていました。

ですが、実際に「真理」を理解してみると、「別に努力は必要なかったのではないか?」と私は思うようになりました。

むしろ、私に本当に必要だったのは、「ただ『自分の平凡さ』を受け入れて、何の期待もせずにのんびりくつろぐこと」でした。

もしも過去の私にそれができていたならば、きっと探求はもっと早く終わっただろうと思います。

なお、「悟るのに努力がいるかどうか」については、以前にも一度論じたことがあるので、興味のある人は、こちらの記事も参照してください。

「真理」を理解するのに努力は必要なのか?努力が意味を持つ人と、努力が障害になってしまう人

なので、今の私は「別に傑出した才能なんてなくても、『自分の平凡さ』の中でくつろげるなら、『真理』を理解することは可能だ」と思っています。

そういう人は、確かにゴータマやイエスのように人目を引くことはないかもしれませんけれど、「光明を得ている」という点においては、別に優劣はありません。

そういう人は、たとえスーパーでレジ打ちをしている時も、「光明」を得ながらそれをするでしょうし、そのことに当人は何の問題も感じないはずです。

しかし、周りで見ている人々の中には、問題を感じる人がいるかもしれません。

なぜなら、「光明を得ている人」というのは、見る人によっては「偉そうにしている」ように見えるからです。

先ほども書きましたように、「真理」を理解している人は、「平凡な自分」に対して何の不満も持っていません。

だからこそ、当人は「もっと成長しなければ!」とも思っていませんし、「自分は今のままではいけない!」とも思っていません。

このため、その人は罪悪感や劣等感に苦しむということがありませんし、無力感や挫折感に打ちひしがれることもありません。

何ができようができまいが、「全てはこれでOKだ」と思っています。

しかし、そのような当人の態度は、現に無力感や劣等感によって苦しんでいる人々からすると、我慢ができなかったりします。

「自分たちはこんなにも苦しみながら生きているというのに、どうしてあいつは平然とリラックスしていられるんだ?こんなのはどう考えても不公平だ!」

そんな風に考えて、人々は「光明を得た人」のことを無意識に敵視することがあるのです。

というよりも、そういうことは現実にはけっこう多いかもしれません。

たとえば、イエスが磔にされたのだって、ある意味ではそのためであると言えば、そう言えるのではないかと思います。

つまり、「誰もが重い十字架を背負って苦しんでいるのに、どうして一人だけ『楽園』にいられるのか?お前も苦しめ!」というわけです。

繰り返しますが、「悟った人」は「自分の平凡さ」を受け入れています。

ですが、それは見る人によっては「とてつもなく非凡なこと」に見えてしまいます。

というのも、そういう時、周りで見ている人々の目には、「平凡さを受け入れた人」のことが、「自分たちに絶対できないことを、易々とおこなっている人」のように見えてしまうからです。

ですが、それを「非凡さ」であると認めてしまうと当人の「自我(エゴ)」が傷つくので、多くの場合、「あいつはどうしてこんなに偉そうなんだ」と言って相手のことを責めるのです。

実際、「相手の非凡さ」を認めてしまうと、「自分の平凡さ」も認めなければなりません。

しかし、覚者を除いて、誰も「自分の平凡さ」を認めたくはないものです。

そして、まさにその「自分の平凡さを認めない」という在り方こそが、「平凡である」ということの証なのですが、誰もがそれを認めたがりません。

その結果、「反転した敵意」が「自身の平凡さの中でくつろいでいる覚者」を攻撃するという形で表現されることになるわけです。

◎覚者は「間違うこと」を気に病まない

実際、自己嫌悪や無力感に苛まれている人の目には、「自分自身にくつろいでいる人」の姿はあまりにも「超然」として見えます。

ですから、彼らが「偉そうにしやがって…」と内心で思うことがあっても、何の不思議もありません。

しかし、だからといって、覚者は別に無誤無謬であるわけではありません。

覚者も「間違い」を犯すことはあります。

実際、私もこのブログの記事を書いていて、しょっちゅう誤字脱字を見逃しています。

後になってからチェックして気づくものもいくつかありますが、たぶんまだ気づいていないものがけっこう残っているのではないかと思います(「大きなミス」を見つけた人は教えてもらえると助かります)。

そういう意味で、「偉そうに見える」覚者であっても、「間違い」を犯さないわけではありません。

ただ、「間違い」を犯すことによって、覚者は自分を責めたり気に病んだりはしないのです。

「間違い」はただ「間違った」というだけのことです。

「自分の間違い」を認識すれば、覚者はそれを認めて修正することもありますけれど、別にそのことで罪悪感に囚われたり、自己嫌悪に陥ったりすることはありません。

それに対して、多くの人が「間違い」を気に病んで苦しむのは、「間違い」を犯してしまったことによって、「自分は完璧な人間であるはずだ」という「自我」によって作られたセルフイメージが傷つくからです。

つまり、「この自分が間違いを犯すはずがない」と思っている人だけが、「自分の間違い」を否定しようとするのです。

◎「自我に従う生き方」から降りた時、内側で「喜び」が花開き始める

「痛いところを突かれた…」と思っている人もいるかもしれませんが、私は別に誰かを責める意図はありません。

なぜなら、「自分が間違いを犯すはずがない!」と人が思うのは、「自我」による巧妙な策略の結果だからです。

別に「あなた」が悪いわけではありません。

「あなた」は本来「自我」ではなくて、何者でもない「意識」そのものです。

ただ、あなたが「自我」と「あなた自身」を混同してしまっているがために、「自我」によって操られてしまっているだけなのです。

実際、「自我」は絶えず私たちを支配しようとします。

「成功」を目指し、「完璧」を目指し、「特別な個人」となることを目指すように仕向けることで、「自我」は私たちに対する支配力を強化しようとするのです。

逆に、「自我による支配」から自由になっている覚者は、「間違い」を気に病んで苦しんだりすることはありません。

なぜなら当人は、「自分は完璧な人間である」とは思っていないからです。

「自分の平凡さを受け入れる」という在り方がどういうことを意味するのか、その輪郭が少しずつはっきりしてきたのではないでしょうか?

それは「完璧」を目指すことなく、「栄光」を欲することなく、「そのままの自分」を受け入れることです。

そして、それは同時に「自我」からの要求を無視することを意味します。

言い換えると、「自我を喜ばせる生き方」から降りることです。

むしろ、「本当の喜び」は、「自我を喜ばせる生き方」から降りた時に手に入ります。

いえ、「手に入る」と言うと、まるでそれを所有できるかのようですから、言い直しましょう。

私たちの存在そのものが「幸福」です。

たとえ何者にもなれなかったとしても、いかなる功績も残せなかったとしても、それは「幸福」とは関係ありません。

ただ「そのままの自分自身」の中でくつろいで、内側で「喜び」が花開くのをリラックスして待てばいいだけなのです。

◎「自我」の声を徹底的に疑う時、初めて「探求の準備」は整う

この「内なる喜び」を知っているからこそ、覚者は罪悪感によって束縛されません。

自分を否定することもなければ、自身を罪悪視することもないのです。

ですが、それは別に「自己肯定感」が高いとかいった話でもありません。

なぜなら、覚者は別に精神論やマインドセットで「自分を肯定しよう」と思っているわけではないからです。

覚者は「全てこれでよい」と、ただ知っています。

覚者からすると、そこに何も付け加える必要はないし、何かを削ぎ落とす必要もありません。

全ては既にして「完璧」です。

しかしそれは、「完璧主義者」が目指している「完璧」とはまるで違っています。

なぜなら、「完璧主義者」は常に現状を否定し続けますが、それに対して、覚者は現状をいつもそのまま受け入れるからです。

そして、「完璧主義者」がそうやって現状を否定し続けてしまうのも、結局は「自我」による策略なのです。

「完璧主義」の人が、「いつか完璧な人間になること」を目指して努力し続けることで、当人の「自我」はエネルギーを得て太っていきます。

それゆえ、「完璧主義」に取り憑かれてしまうと、当人はずっと「自我」の奴隷のように走り続けなければならなくなってしまうのです。

ですので、もしもあなたが「自分の平凡さ」を受け入れられなくて苦しんでいるのであるならば、「自我」が言うことを疑ってみることから始めてください。

何者かになれば、本当に「幸福」になれるのでしょうか?
偉大な功績を残せれば、後悔せずに死ねるのでしょうか?

これは、生きている間に一度徹底的に疑う価値のある問いだと思います。

もし「たとえ何者かになっても、偉大な功績を残しても、『幸福』になることはできないようだ」と感じたならば、それは「探求の準備」が整ったということを意味しています。

その時、あなたはもう「たとえ何を手に入れても満足できない」と気づき始めています。

そして、その気づきにからもたらされる「渇き」の感覚こそが、「真理」の探求の原動力となるのです。

この気づきを内に宿している人は、ある意味で「選ばれた人」と言えます。

実際、誰もがこの「渇き」を知っているわけではありません。

そして、その「渇き」はいつかあなたを「究極の平凡さ」へと連れていくでしょう。

そこに辿り着いた時、あなたにはもう成し遂げるものは何もなく、手に入れるべきものも一つとしてありません。

そして、そうであるがゆえに、あなたはある意味で、「全て」を手にすることになります。