「怒り」は探求のための燃料になる|「怒り」を罪悪視せず、「自己理解の力」へと変える方法論

「この怒りっぽい性格をなんとかしたい」

そんな風に思っている人はいませんか?

いつもなんとなくイライラしていて、他人のちょっとした言動につい腹が立ってしまう。

それで、時には相手にきつく当たってしまうこともあり、後で一人で自己嫌悪に陥る…。

「怒りっぽい」と言われる人にとっては、そういうことは「あるある」かもしれません。

なぜなら、世の中の多くの教えが「『怒り』は良くない」と言うからです。

いわく、「怒るな。もし怒るなら、『真理』を理解することは絶対できない。『怒り』に囚われる人間は『罪人』なのだ」と、説教師たちは言い続けます。

でも、本当にそうでしょうか?

「怒り」というのは、本当に「悪いもの」なのでしょうか?

今回の記事では、「怒り」という感情が何を意味するのかを書いてみたいと思います。

怒りっぽくて困っている人も、イライラの原因について理解したい人も、ぜひ最後まで読んでみてください。

では、始めていきましょう。

◎「怒り」という感情の源は、当人にとっての「生きようとする力」である

まず最初に大事なことを言っておきます。

「怒り」は「悪」ではありません。

かと言って、別に「善」でもありません。

「怒り」というのは、私たちが自身の生命力を表現する際に取る「一つの仕方」です。

「命が現に生きている」ということが「善」でも「悪」でもない「単なる事実」であるのと同じように、「怒り」というのも「善」でも「悪」でもないのです。

ただ、もしも「怒り」に飲み込まれて誰かのことを傷つければ、それは社会的には「悪」と言うことになってしまうかもしれません。

しかし、たとえそうであっても、「怒りが生じること」それ自体は、「生きている」ということの証みたいなものであって、その存在を闇雲に否定する必要はないのです。

フロイトの孫弟子にあたるアレクサンダー・ローエンという精神分析家は、「怒り」という感情を説明する際に、「攻撃性(アグレッション)」という概念を導入しました。

いわく、「怒り」という感情は、当人の「攻撃性(アグレッション)」が表に出る時の一形式である、と。

この「アグレッション」そのものは、別に否定されるべきものではありません。

たとえば、生まれたばかりの子犬は、他の子犬を押しのけてでも、母親の乳を吸おうとします。

逆に「アグレッション」がない子犬は、母乳を求める衝動性が低いので、うまく母親の乳を飲めるポジションを取ることができません。

それゆえ、そういう子犬は、人から助けてもらわないと生き残ることが難しくなるのです。

このように、「アグレッション」そのものは、命が「生きよう」とする際に発揮する力であり、それがなければ生物は生きていくことができません。

たとえば、スポーツの世界でも、「アグレッシブなスタイル」なんて言ったりすることがありますね。

「勝利に対する執念」が強いことをもって、そんな風に表現することがあります。

または、異性との交流について積極的であることを、「アグレッシブ」と言ったりすることもあるかもしれません。

つまり、「自分の中に求めているものがあり、それを得ようとして奮闘する力」のことを、「攻撃性(アグレッション)」というわけです。

そういう意味では、「真理の探求」においても「アグレッション」は必要になってきます。

実際、「何が何でも『真理』を理解したい!」という執念があるからこそ、人は前進することができるものです(まあ、探求の過程において、「アグレッション」は別の物に変容していくことになるのですが)。

ともあれ、「怒り」というのは当人の中にある「アグレッション」の現れです。

それそのものはあくまで「生命現象」であって、「善」でも「悪」でもありません。

むしろ、それを「罪悪視」してしまうことによって、問題が複雑になっていきます。

なぜなら、もしも「怒り」を「罪悪視」すると、当人は「自分の怒り」を抑圧するようになるからです。

◎「罪悪視」され抑圧された感情は、当人の中で腐敗する

たとえば、「怒り」が内側に在ることを感じた時、多くの人はそれを見なかったことにしようとします。

「違う!自分は怒ってなんかいない!」と自分で自分に言い聞かせるのです。

と言うのも、もしも「怒り」の存在を認めてしまうと、当人は自分のことを「罪悪視」することになってしまうからです。

自分のことを進んで「罪人」だと思いたがる人はいません。

誰だって、自分のことを「善良な人間」であると思いたがります(それが「自我(エゴ)」というものの働きです)。

それゆえ、「怒り」を「罪悪視」している人は、「自分の怒り」を許容することができません。

それを認めることができず、無意識に心の奥底へ押し込んでいってしまうのです。

しかし、そうすることによって、「怒り」は表現され損ないます。

これは「怒り」に限らず、あらゆる感情に言えることですが、表現されないでしまい込まれた感情というのは、当人の奥底で徐々に腐敗していってしまいます。

つまりは、腐って変質していくわけです。

すると、すごい「腐臭」がするものですから、当人はますますそれを表に出すわけにいかなくなります。

あなたも見たことがありませんか?

たとえば、ドラマなんかで夫婦が言い争いをしている時、ふとした瞬間に「そう言えば、あんたは昨日もこんなことをした!にもかかわらず、それをちっとも悪いと思っていない!」と言って、「今あったこと」ではなく、「昨日のこと」を持ち出して非難し始める場面があります。

さらには、「10年前のあの時だってそう!あんたはちっとも反省してない!」とまで言い出して、「怒り」は芋づる式に「過去の記憶」を引っ張り出してきます。

しかし、そういった「古い怒り」というのは、そばで聞いている人からしても、あまり気持ちよいものではありません。

言われている人からしても、「それって今関係ある?」と感じやすいものです。

でも、怒っている当人には止めることができません。

なぜなら、「古い怒り」もまた、出口を探してずっともがいていたからです。

◎「見てあげなかった感情」は、成仏できずに叫び続ける

そもそも、あらゆる感情というのは、私たちに見てもらいたがっています。

そういう意味で、感情というのは「小さい子ども」と同じなんです。

だから、瞑想の中で感情を子細に観察すると、それはやがて小さくなって消えていきます。

つまり、瞑想の中で見てもらえたことによって、感情自身が満足して成仏するわけです。

逆に、「誰にも見てもらえなかった感情」というのは、「散々親から無視されてきた子ども」のようになってしまいます。

その子はきっと、すっかり拗ねてしまっているでしょうし、親から見てもらうことを諦めているかもしれません。

でも、内側には「どうしてあの時、ちゃんと自分を見てくれなかったの!?」という強い叫びが抑え込まれています。

だから、もしも「見てもらえる機会」が巡ってくると、「自分を見て!」と言って表に現れてくるのです。

しかし、そういう「古い感情」というのは、「今ここの状況」に対応したものではないので、いきなり持ち出されると、相手は困惑してしまったりします。

ですが、問題の根本は一つです。

それは、「自分の感情」に対して、当人がかつて見てあげることをしないで蓋をしたということです。

そして、「怒り」を「罪悪視」するということは、この「蓋をする」という方向性をどんどん強化していってしまいます。

「怒り」を「罪悪視」すればするほど、当人は「自分の怒り」から目を背けるでしょうし、「お前なんか嫌いだ!あっちに行け!」と言って「怒り」を追い払おうとするかもしれません。

ですが、「怒り」はどうしても自分のことを見てもらいたいので、「お願いだから自分を見てよ!」と言って懇願してきます。

このため、当人は内側で分割されてしまいます。

すなわち、「怒りを抑え込もうとする自分」「存在を認めてもらいたい怒り」との間で、当人は引き裂かれてしまうのです。

これが「苦しみ」を生み出します。

それも、「不必要な苦しみ」を。

当人は「怒り」を認めたくありません。

でも、「怒り」の側は認めてもらいたがっています。

そこには対立の構造があり、当人は自分で自分と闘い続けることになってしまいます。

こういったことを終わらせるためには、まず「怒り」を「罪悪視」することをやめることです。

何度も言っていますが、「怒り」そのものは「善」でも「悪」でもありません。

なので、たとえ「怒り」が自分の内側に在ったとしても、何も「悪いこと」はないのです。

まずこのことを受け入れるところから、「怒り」と向き合う作業は始まります。

◎他人は「怒りの原因」ではないと理解する

しかし、そうは言っても、その「怒り」を外側の他人に向かって表現すると問題になります。

なぜなら、それによって他人との間で「感情の連鎖」が発生してしまうからです。

たとえば、「怒り」に任せて他人を殴ったり怒鳴ったりしてしまうと、相手も殴り返してくるかもしれませんし、「傷つけられた!」と言って社会的に報復されるかもしれません。

すると、せっかく「一つの怒り」を表出したのに、結果として「より多くの怒り」が自分の中に新たに生まれてしまう可能性があります。

これでは意味がありません。

「そうはいっても、やり返さないと気が済まないよ」と感じる人がいることは、私も理解しています。

実際、「怒りを成仏させるには、現実に相手を痛い目に遭わせないといけない」と世の中の多くの人は思っています。

ですが、その方向性で「怒り」を表出してしまうと、「感情の連鎖」が発生してしまい、よりいっそう「怒り」に囚われてしまいます。

ここで、そもそも「怒り」の源が当人の中に存在する「アグレッション」であったことを、思い出してください。

一般的な感覚では、「怒りを生み出しているのは外側の他人だ」と思われがちですが、実際のところは違います。

本当の意味で「怒り」を生み出しているのは、「怒っている人自身」です。

他人はあくまでも「きっかけ」に過ぎません。

実際、何らかの理由で「アグレッション」がなくなってしまっている人は、他人から何をされても「怒り」というものを感じません。

彼らは生命力が涸渇していて、「怒るだけの力」が身体の中に残っていないのです。

逆に言うと、「怒りっぽい人」というのは、「アグレッション」が枯れていない人です。

つまりそういう人は、自分の中に生命力がまだ十分残っているからこそ、外側の他人の言動を「きっかけ」にして、「怒り」という感情を抱くことができるのです。

なので、「怒り」の源は他人ではなくて、自分の中に在ります。

そして、だからこそ、別に他人に仕返しをしなくても「怒り」を成仏させることができるのです。

これは本来喜ばしいことです。

もしも「怒り」の真の原因が相手にあったら、私たちは「自分の怒り」を自分一人でどうにかすることができなくなってしまいます。

そうなると、私たちは絶えず相手に報復し続けなければならなくなり、争いが終わることはなくなるでしょう。

ですが、「怒り」を成仏させるのに、他人は必要ありません。

むしろ、他人を巻き込むと「余計な問題」が増えるだけです。

やるべきことは、「自分の怒り」をただ見てあげることです。

「『ここに確かに怒りが在る』と認めて、そのまま受け入れてあげること」と言ってもいいと思います。

「自分の怒り」を受け入れて、最後まで見届けてあげることによって、私たちは「怒り」を成仏させてあげることができるのです。

◎まずは「古い怒り」を表現し、それから「新しい怒り」を観察する

「自分の怒りを見てあげよう」と思ったら、たとえば、静かに坐って目を閉じて、内側に在る「怒り」のことを、ただただ観察し続けてみます。

それはいわば、「怒り」を対象にした瞑想です。

そこには「頭に血が上る感覚」があるかもしれませんし、「腹の中がよじれるような感覚」があるかもしれません。

いずれにせよ、そういった「怒りの感覚」が、どのように現れ、どんな風に変化し、どうやって消えていくのかを、ただただ観察するのです。

そうすることによって、「怒り」というのは成仏します。

なぜなら、「見てもらえた」と思って「怒り」が満足するからです。

もちろん、最初はそれはとても難しいことです。

長い間抑圧されてきた「古い怒り」は、「どうしてずっと見てくれなかったんだ!!」と言って、大暴れするかもしれません。

なので、そういう場合はいきなり瞑想は試みずに、まずはノートに「怒り」を書きなぐってください。

「上司への愚痴」でも「親への憎悪」でも、なんでもいいので、思いつくままにノートに「怒り」を表現します。

書くことさえもどかしいのであれば、ノートをびりびりに破いてもいいかもしれません。

それも一つの表現です。

なお、この表現方法の詳しいやり方については、下記リンク先の記事の6番目の見出しにある「◎【呼吸を深めるセカンドステップ】感情をありのままに解放する」を参照してください。

【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ

いずれにせよ、そうして「怒り」を他人ではなくノートに表現することで、「古い怒り」は成仏していきます。

そして、「古い怒り」が成仏するにしたがって、当人は徐々に「怒り」に振り回されなくなっていくでしょう。

もちろん、生きていれば日々「新しい怒り」は生まれてくるかもしれませんが、それは「古い怒り」のように無茶苦茶に暴れ回ったりしません。

「古い怒り」のようにまだ「何が何でも見てくれなきゃ嫌だ!」と要求するほど拗ねていないので、ちょっと見てあげるだけで満足して消えていくのです。

こうなると、もはや「怒り」を表現する必要さえなくなります。

「古い怒り」を解放するには、ノートにそれを表現する必要がありましたが、もしも内側に溜め込んでいた「古い怒り」がすっかりなくなると、ただ観察するだけで「怒り」が消えていくようになるのです。

ひょっとすると、「怒り」を対象にした瞑想を練習するのは、この段階になってからのほうがいいかもしれません。

なぜなら、「古い怒り」がなくなっていると、当人は「怒り」に振り回されて我を失ったりしなくなるので、結果的に落ち着いて「自分の感情」を観察できるようになるからです。

この段階まで来ると、「怒り」に振り回されている感覚はほとんどなくなり、当人にとって「怒り」は「お客さん」みたいに感じられるようになっていきます。

当人は、既に内側を丁寧に観察する習慣がついているので、「あ、今『怒り』が訪れたな」とすぐ気づきます。

そして当人は、「怒り」がしばらくそのまま滞在してから「帰っていく」のを見届けます。

その様子は、まさに「お客さん」です。

この時、当人の「アグレッション」は、「他人を攻撃するため」に使われなくなります。

そうではなくて、ただ「自分自身を理解するため」に使われるようになります。

つまり、「アグレッション」という名の生命エネルギーが、「他人を攻撃する」という形で外に向かわなくなり、「自分の怒りを理解してあげる」という形で内向きに使われるようになるのです。

◎この世に存在する二種類の「怒らない人」について

このようになると、当人はもう「怒り」を外側の誰かに向かって表現する理由が無くなってしまいます。

というのも、仮に「怒り」が内側に生じることがあっても、当人はその存在にすぐ気づき、「あ、今『怒り』が居るね。どれどれ何が言いたいのかな?」と丁寧にその様子を観察するので、「怒り」はあっという間に満足して消えていくようになるためです。

なのでそういう人は、表面的には「怒らない人」のように見えるかもしれません。

ですがそれは、そもそも「アグレッション」が涸渇している人が怒らない場合とは、全く違っています。

「アグレッション」が涸渇している人が怒らないのは、「怒るだけのエネルギー」がそもそもないからです。

もしもエネルギーが残っていたら、きっとその人も怒ることでしょう。

「アグレッション」が枯れている人が怒らないのは、決して「怒り」から自由になっているためではなく、単に怒るだけの元気がないからに過ぎないのです。

逆に、「怒りを理解するため」に自分のエネルギーを使う人は、「怒り」を表現することもなければ、それを抑圧することもありません。

むしろ、彼/彼女は「怒り」をいつも丁寧に観察しています。

そして、そうやって「怒り」を落ち着いて観察できるからこそ、「怒り」から自由でいることができるのです。

「アグレッション」が枯れている人は、そもそも「怒り」を感じない人です。

それに対して、「アグレッション」を変容させて、その力を「自分自身を理解するため」に使っている人は、「怒り」を感じることはあっても、それに取り込まれることがありません。

「怒らない」という意味では、両者は表面上、同じように見えるわけですが、その実態は全く異なっているのです。

◎「アグレッション」を、探求を進めるための燃料とせよ

いかがでしたでしょうか?

今回は「怒り」という感情について、一歩踏み込んで論じてみました。

世間一般の考え方とはけっこう違うところもあると思いますので、「そんなわけないでしょ!」と感じた人もいるかもしれません。

ですが、実際にノートに感情を表現することを続けるなら、「別に他人に石を投げなくても、『怒り』は成仏させられるんだな」と、どこかで気づくことになるのではないかと思います。

もちろん、最初のうちは「なんで自分ばっかりがこんな風に一人で苦労しないといけないんだ!」と感じるとは思いますが、実際に感情を表現し切ることができると、けっこう清々しいものです。

そういう時、主観的には「肩の重荷」が降ろせたように感じます。

海や山に行って大声で叫んだことのある人は、それを感じたことがあるのではないでしょうか?

そして、もしもこの「清々しさ」を何度も体験するようになると、「他人に向かって仕返しすること」はむしろバカバカしいことのように、当人には感じられてくるでしょう。

結果として、自然に「仕返ししよう」とは思わなくなっていくのではないかと思います。

いずれにせよ、一番大事なことは、「怒り」を「罪悪視」しないことです。

もしもあなたが「怒りっぽい」のであるならば、それはあなたの生命力がまだ枯れてしまっていないからです。

あなたは「怒り」を抱くことができるくらいに、十分活き活きしています。

あとは、その「溢れているエネルギー」を何に使うかです。

他人を攻撃するために使えば、「感情の連鎖」を招きます。

それなら、ノートに「怒り」を表現することや、「怒り」に瞑想することのために「自分のエネルギー」を使ったほうが、自分のためにも、周りの人のためにもよいのではないかと思います。

そして、探求者にとっては、「怒りのエネルギー」さえもが、探求を進めるための燃料になります。

逆に、「真理」について理解しようとする際に、もしも「自分の怒り」を抑圧すると、当人は前に進むことができません。

なぜなら、そうやって「怒り」を抑圧し続けることによって、当人は「自分の怒り」に束縛されてしまうからです。

自分自身について深く理解するそのためには、むしろ「怒り」の助けが必要です。

「怒り」に使われていたエネルギーが「自己理解」のために使われるようになる時、私たちは自分自身の束縛を破壊していくことができます。

「執着」が断ち切られるのは、あくまでも「理解」が訪れることによってです。

抑圧は常に束縛を生み、理解だけが人を自由にします。

私たちが自分自身を深く理解した時、私たちはようやく「自分が何に縛られていたのか」を自覚することができるのです。