「孤独」というのは「苦しいもの」なのでしょうか?
たとえば、世の中には、常に人とつながっていないと不安で、メールやSNSのやり取りがやめられない人たちがいます。
また、「『孤独』は『悪いもの』だから、積極的に人とかかわらないといけない」と思っている人もいるでしょう。
でも、本当に「孤独」は「避けるべきもの」なのでしょうか?
というよりも、そもそも「避けることのできるもの」なのでしょうか?
今回の記事では、この「孤独」というものについて、少し深掘りしてみようと思います。
探求そのものとはそこまで関係のない話かもしれませんが、このトピックが気になっている人はけっこう多いかもしれません。
「『孤独』によって苦しんでいる」という人や、「『孤独』について悩んでいる」といった人に対して、何か考えるためのヒントのようなものを提示できれば幸いです。
では、いってみましょう。
◎「孤独」とは、私たちにとっての「存在論的な前提」
まず最初に、今回の記事でメインとして使おうと思っている言葉の定義をしておきたいと思います。
それは「孤独」と「孤立」です。
この二つは、似ている言葉のようでありながら、ニュアンスが微妙に異なっています。
いったいどう異なっているのか?
私の感覚で言うと、「孤独」というのは私たちにとって「存在の前提」です。
たとえば、私たちは他人の気持ちがわかりません。
「そんなことないだろ!」と言う人もいるかもしれませんが、どんな人であっても、他人の気持ちを100%理解することは不可能です。
たとえ、どれほど親身になって話を聞いてみたとしても、それによって相手についてわかることは、ごくごくわずかなことだったりします。
私たちは気軽に「共感した!」とか「その気持ち、わかるよ…」とかいった言葉を口にしますが、本当のところ、どこまで「わかって」いるのかは、確認のしようがありません。
なぜなら、私たちに観察できるのは、自分の思考や感情だけだからです。
自分の思考や感情であれば、注意して観察することで、私たちはそれを理解することができます。
「今、こういう思考があるのだな」
「あ、なんか今ちょっと怒りが生じた」
そんな風に、私たちは自分について理解できます。
でも、他人の思考や感情は、自分の思考や感情を観察するようには見て取ることができません。
私たちにできることは、あくまで他人の言動を元にして、彼らの思考や感情を「推測」することだけなのです。
そしてこのことは、人生の全ての局面において、ついて回ります。
最期に死ぬ時においてさえ、当人は「自分の死」を死ぬ以外にありません。
たとえ、どれほど深く愛し合った相手がいたとしても、その人は当人の代わりに死んでくれるわけではありませんし、相手がこちらの代わりに死ぬこともないわけです。
もちろん、「交通事故からかばう」などのような形で、相手や自分が身代わりとなって死んでいくことはあるかもしれませんが、だからといって、そうやってかばわれた側が「不死」になるわけではありません。
そうしてかばわれた後も、生き残った当人はあくまで「自分の人生」を生きていくのであり、最終的に「自分の死」を死んでいく他ないわけです。
こう考えると、「他人のことは理解できない」ということも、「自分としてしか在ることができない」ということも、私たちにはそもそも避けることができないことなのではないかと思います。
それは、私たちの「存在論的な前提」であり、「自分である」という限り、逃れることができないのです。
◎「孤独」を避けることは誰にもできない
このような、避けることのできない「存在論的な前提」のことを、私は「孤独」と言っています。
そういう意味では、この世に「孤独でない人」は存在しません。
実際、たとえ大人数でごった返しているパーティ会場に身を置いていたとしても、その人は避けようもなく「孤独」なはずです。
なぜなら、周りのいる人たちの気持ちを完璧に理解することは当人にとって不可能であり、「自分の人生」を生きていくのは、どこまでも「自分自身」だからです。
もちろん、賑やかなパーティ会場に身を置いていると、そういった事実を一時的に忘れることができるかもしれません。
「ここにいるのはみんな仲間であり、お互いに気持ちが通じ合っている」と感じることもあるかもしれません。
ですが、たとえ何十年も付き合い続けた相手であってもお互いをまるで理解できていないことはよくあるものです。
実際、あなたは両親や配偶者の気持ちをどれくらい正確に理解できますか?
毎日顔を合わせていると、「この人のことはもうわかっている」と思い込んで考えることをやめてしまいがちですが、よくよく観察してみると、「あいかわらずこの人のことがよくわからない」と改めて感じることは多いものです。
このように、「孤独」は避けることができません。
一時的に忘れることならできるかもしれませんが、それによって当人が「孤独」でなくなるわけではありません。
それゆえ、誰もが人生のどこかで、この「孤独」と向き合わなければならなくなるのではないかと思います。
存在する限り、誰にも決して避けられないもの、それが「孤独」というものなのです。
◎「孤立」は「具体的なステップ」を積み重ねれば抜け出せる
それに対して、「孤立」という言葉もあります。
こちらの言葉について私は、「社会的に他者から断絶している状態」という風に定義しています。
つまり、社会との接点を失って、一人きりになっている人は、「孤立」していることになります。
たとえば、「引きこもり」の人などは、「孤立」していると言えるでしょう。
なお、この「孤立」については、「孤独」と違って解消することが可能です。
「孤独」は全ての人にとって避けられない定めですが、「孤立」は個人個人の選択によって抜け出すことが可能なのです。
もしも「孤立」から抜け出したいと思ったら、社会との接点を増やしていくことが解決策になります。
たとえば「引きこもりの人」にとって、「孤立」を解消するためのファーストステップは、「久しぶりに親や兄弟と話をしてみる」ということであるかもしれません。
もちろん、親や兄弟との会話は「社会との交流」とまでは言えないでしょうけれど、少なくともそれは「他者とのかかわり」ではあります。
そして、次のステップとして「近所を散歩してみる」ということも、考えられるかもしれません。
その他、支援団体に相談してみたり、家族や支援員の人と一緒に、福祉事務所へ今後のことを相談に行ってみてもいいでしょう。
なんだかんだで日本の福祉はしっかりしている部分もあるので、「社会とつながりたい」と思って「具体的なアクション」を重ねていけば、「孤立」から抜け出す道は残されていることが多いです。
「孤立を抜け出したい」と思い続け、そのための道を探すのを諦めない限りは、どこかに突破口はあるはずだと、私は思っています。
◎「孤立」は「悪いこと」なのか?
かく言う私自身、20代の頃に3年ほど「引きこもり」の状態になっていたことがありました。
学校を卒業して最初に勤めた職場が辛くて逃げ出してしまい、そのまま社会に出ていくことができなくなってしまったのです。
当時の私は、事実上、社会から「孤立」していました。
親を含めた誰とも顔を合わせず、毎日毎日、起きてから寝るまでテレビゲームをして時間を潰していたのを覚えています。
なぜテレビゲームをしていたかというと、何もしないでいると「自己嫌悪」と「自責の念」によって押しつぶされそうになってしまっていたからです。
当時の私は、自分のことを「社会的な落伍者」であり、「無価値な欠陥品」だと思っていました。
私は寝ても覚めても自分のことを責め続け、自分で自分に向かって「お前のような奴は今すぐ死んでしまうべきだ!」と言い続けていました。
その状態があまりにも辛かった当時の私は、ゲームに熱中することで、一時的に「苦しみ」を忘れようとしたのです。
その時の私は「孤立」していましたが、そのことを何か「悪いこと」のように思い込んでいました。
「孤立するようなやつは、人間失格だ」と思い込んでいて、「そんな自分には生きている価値はない」と信じていたわけです。
ですが、「孤立」というのは単なる「社会的な事実」に過ぎません。
社会と接点を持っていればその人は「孤立」しておらず、逆に、社会との接点を持っていなければその人は「孤立」していることになります。
それは「善い」でも「悪い」でもない、「単なる事実」です。
ですが、私はそこに「悪」というレッテルを貼りつけて、それゆえにもがき苦しんでいました。
そして、そんな風に寝ても覚めても「自分は無価値だ」と考え続けていたことで、私はますます自信を失い、社会に出ていくことが怖くなっていったのです。
これは完全に悪循環です。
繰り返しますが、「孤立」というのは「単なる事実」です。
その上で、もし当人が「孤立したままでいい」と思うのであれば、特に問題はありません(まあ、家族はそれを問題視するかもしれませんが)。
また、もしも「孤立から抜け出したい」と思うのであれば、ただ社会にかかわるためのステップを一歩一歩踏んでいったらいいだけなのです。
もちろん、当人にとって、それはとてつもない勇気が要ることかもしれません。
ですが、「孤立」というのは「孤独」と違って解消することのできるものです。
そうであるならば、他のあらゆる問題を解決する時と同じように、現実的で具体的なステップを、ただ愚直に踏んでいったらよいだけだと、私自身は思うのです。
◎「孤立」を解決する時は、それを「罪悪視」しないこと
でも、実際にはそんなに簡単に「孤立」は解決しないかもしれません。
それは、「孤立」している当人やその周りの友人・家族の誰もが、「孤立」を「罪悪視」しているからです。
たとえば、家族は「孤立」というものを「悪いこと」だと考えて、周りの人に隠そうとします。
福祉事務所に相談に行くことを「恥ずかしいこと」だと思って、控えていたりする場合だってあるでしょう。
それゆえ、「孤立」している当人は、「自分は『悪いこと』をしているのだ」という風に意識してしまいがちです。
その結果、「自分は『してはいけないこと』をしている」という観念が、当人にまとわりつくようになります。
また、当然ながら、「孤立」している当人自身も、自分のことを「罪悪視」していることが多いです。
それゆえに、絶えず罪悪感に苛まれ、自信を失っていってしまいます。
その結果、社会との接点を回復するための「具体的なステップ」を踏み出す勇気が持てず、過去の私のように、目の前の苦しみから逃避するためにゲームやネットに依存していってしまうのです。
そもそも、「孤立」というのは、「抜け出したい」と思っている人にとってだけ、「解決すべき問題」になります。
ですが、そうやって「問題」を解決する際に、「孤立」のことを「罪悪視」する必要は全くありません。
たとえば、もしもお金がなくて困っているのであれば、「お金を手に入れるための方法」をこそ、具体的に考えたらいいのです。
そこでもし、「お金がないこと」それ自体を「罪悪視」して自分を責め始めたら、頭がこんがらがって冷静に考えられなくなってしまいます。
何度も繰り返しますが、「孤立」というのはなくそうと思えばなくせるような、「単なる社会的な事実」に過ぎません。
そうであるならば、「孤立」について「罪悪視」しても百害あって一利なしです。
問題を解決しようとする時には、問題を抱えていること自体を「罪悪視」したりせず、「どうやったらこの問題は解決できるか?」ということだけを、落ち着いて考えたらいいのです。
◎私が「引きこもり状態」から抜け出したときのスモール・ステップ
ちなみに、過去の私は引きこもりから抜け出す時、こんなステップを踏みました。
まず、何年もゲームをし続けていた当時の私は、とうとうプレイするゲームがなくなってしまいました。
「苦しみ」から目を背けるためには、ゲームにいくらかのめり込む必要があったのですが、その時の私にはもう、のめり込めるくらい面白いゲームが残っていなかったのです。
仕方がないので、私はゲームをする代わりに本を読んで気を紛らわせようとし始めました。
本棚にあった、まだ読みかけの本をパラパラとめくり、読書をするようになったのです。
もちろん、初めはなかなか読書に集中できませんでした。
でも、当時まだ家にネットを引いていなかった私は、もう他に気を逸らす術がなかったので、読書にかじりついたのです。
すると、次第に私の心は柔らかさを取り戻していきました。
たとえば私は、本の中に出てくる言葉や考え方に触れることによって、「そうか、こういう考え方もあるのか」と思ったり、「こんな視点もあるんだな」と感じたりしました。
それまで寝ても覚めても自分自身の「呪詛の声」しか聞いていなかったので、私の視野はとても狭くなってしまっていたのだと思います。
本を通じて「他者の視点」に触れることで、そういった「呪縛」から解放されていったように思います。
つまり、本の著者という「他者」と想像上の対話をすることによって、私の「孤立」は少しだけ解消されたのです。
そうして、本を読んでいるうちに、だんだん外に出たくなってきました。
たぶん家の中に居続けていることに対して、内心では飽き飽きしていたのだと思います。
また、当時の私は故郷を離れて暮らしていたので、散歩に出ても特に知り合いと顔を合わせなくてよかった点も、散歩に対する心理的なハードルを低くしてくれていたかもしれません。
いずれにせよ、外の景色が見たくなった私は、毎日5分だけ散歩をするようになりました。
とはいえ、長い間の「引きこもり生活」で足腰がすっかり弱っていたので、近所を歩くくらいしかできませんでした。
ですが、1ヶ月ほどそうして毎日近所を散歩しているうちに、体力が回復してきました。
そして、散歩の時間は徐々に伸びていき、最終的には30近く散歩した上、散歩先の公園にある芝生で身体を動かすエクササイズを実践するようになったほどです。
私の身体は徐々に活力を取り戻していき、同時に心も元気になっていきました。
新しい本も買って読むようになっていて、いろいろな知見に触れる中で、「社会に出るのも悪くないかもしれないな」と私は考えるようになっていきました。
それから、数か月が経った頃、私は思いきって近所のスーパーのパートに応募し、無事に採用されることになりました。
最初は朝に2~3時間だけ手伝う仕事をしていましたが、仕事ぶりを上司に認められて、最終的には毎日8時間働くようになっていったのです。
そのようにして、私は「孤立」を抜け出したのでした。
◎「孤独」と「孤立」を混同すると、人は大混乱に陥る
ご覧いただけばわかる通り、私は「孤立」を抜け出す際、「『孤立』というのは『悪いもの』だ」とは、全く考えていませんでした。
むしろ、「孤立」のことを「罪悪視」していた間、私は一歩も動けずに苦しみ続けていたのです。
「孤立」というのは、解消しようと思えば、そのための手段はたくさんあるはずです。
ですが、もしも「孤立」を「罪悪視」してしまうと、問題はかえって深刻になります。
解決できるはずの問題が、とんでもない「難問」になってしまうわけです。
ですが、世の中の人の大半は、「孤立」を無意識に「罪悪視」していますし、さらには「孤独」と「孤立」を混同してもいます。
先ほども言いましたように、「孤立」は具体的な手順を踏んでいけば解消可能ですが、「孤独」は原理的に解消不能です。
それゆえ、「孤立」と「孤独」を一緒くたにして、それを何とかして解消しようとすると、当人は大混乱に陥ってしまいます。
たとえば、「孤独であること(自分が存在論的に独りであること)」が耐えられなくて、社会との接点を持とうとする人がいます。
そういう人は、大企業に入って、仕事で業績を残し、上司や同僚から認められれば、自分の抱える「孤独感」が癒されるはずだと期待していたりすることがあります。
しかし、そのやり方で消えるのは、あくまでも「孤立」のほうであって、「孤独」は絶対に消えません。
また、「理想的な恋人」を見つけることで「孤独」から目を逸らそうとする人もいますが、それによって「孤独」が消えることはありません。
恋人と付き合うことによって、「孤立」はいくらか解消されるかもしれませんが、「孤独」はやっぱり手つかずのままです。
こういった混乱の元は、当人が「孤独」と「孤立」を混同することから来ています。
「孤独」というのは誰にも避けることができません。
それゆえ、「孤独」は解決しようとしてもがくものではなく、ただ受け入れるしかないものです。
逆に、「孤立」については、変に「罪悪視」したりすることなく、「単なる事実」として見ればいいと思います。
もしも当人が「社会との接点を持ちたい」と思うのであれば、「孤立」している自分のことを責めたりせず、ただただ愚直に「社会との接点」を探っていったらいいと思うのです。
◎終わりに
いかがでしたでしょうか?
今回は探求とはあまり関係のない「孤独」と「孤立」についての話でした。
記事の中でも書きましたが、「孤独」と「孤立」をごっちゃにしてしまうことは、世の中ではよくあることなのではないかと思います。
なので、もしも混乱してしまった場合には、まず自分がいったい「孤独」と「孤立」のどちらで苦しんでいるのかを明確にすることが、当人にとっての第一歩となることでしょう。
もしも「孤独」で苦しんでいるのであれば、その「苦しみ」を直視するしかありません。
なぜなら、「孤独」というのは、この世の誰も逃れることのできないものだからです。
しかし、もしも「苦しみ」を直視するならば、「『孤独』は絶対に避けることができない」という理解がやがて訪れるでしょう。
そうしたら、もう「孤独」を避けようとしていたずらに苦しむことも、無くなっていくのではないかと思います。
むしろ当人は、「孤独」の中でゆったりとくつろぐようになっていくかもしれません。
そして、もしも「孤立」で苦しんでいるのであれば、おそらく当人は思い違いをしています。
なぜなら、「孤立」は「善い」でも「悪い」でもない、「単なる事実」だからです。
ですので、「孤立」を解消する際には、「苦しみ」は当人が前進するのを妨げるだけで、一切助けにはなりません。
そういう意味では、「苦しみ」は少なければ少ないほどいいです。
苦しむことで動けなくなってしまうくらいなら、自分を「罪悪視」することなんてやめて、「できること」を一つずつやっていった方が、ずっと建設的だと思います。
ということで、今回は「孤独」と「孤立」についての話でした。
「孤独」や「孤立」に関して悩んでいる人は、ぜひ考えるヒントにしてみてください。