あなたは、努力することに意味を感じる人ですか?
それとも、「努力しよう」という意志やモチベーションがあまり湧かない人でしょうか?
今回の記事では、「真理を理解するのに技法の実践は必要なのか?」ということを考えたいと思います。
かく言う私自身は、合計すると15年くらい様々な実践を続けた果てに、探求の「ゴール」に辿り着きました。
でも、本当にそれは必要なことだったのでしょうか?
このことは疑ってみる価値があると思います。
もしかすると、それは「不必要な努力」だったのかもしれません。
少なくとも、誰もが私と同じ道を辿らなければならないわけではないと、私自身は思っています。
それゆえ、私の書く文章を読んでいて、「真理の探求って大変そうだなぁ。こんなに頑張って実践をしないといけないのか…」と思っている人は、ちょっと立ち止まって、今回の記事を読んでみてください。
あなたに「努力」が必要だと断定するのはまだ早いです。
ひょっとしたら、私が推奨する「努力」は、あなたにとっては「不必要な回り道」かもしれません。
では、どういう人が「努力」を必要としないのでしょうか?
以下、説明していきましょう。
◎「男性的な探求者」は、努力と意志で「未踏の地」を徐々に踏破する
私の書いた記事をいくつか読まれた方は、私が理屈っぽい人間であることが既にわかっていると思います。
私は何らかの物事について考える時、常に「なんでそうなるのだろう?」と疑問に思いますし、「この問題の根源は何なのだろう?」と考えて分析します。
というのも、そうやってきっちり知的に理解しないと、私の場合、なんとなく落ち着かないからです。
あとは、単純に「そうやって考えることそのものが好き」という部分もあるでしょう。
そのため、探求の道について解説する時にも、私はなるべく体系立てて説明します。
それは、かつて私自身が探求する中で、一歩一歩前進していった過程を示すものです。
そうした私の前進は、あたかも積み木を一個ずつ積み上げていくようにおこなわれました。
というのも、私は探求の道を一気に進むことができなかったからです。
まず基礎的なことから始めていき、その次に応用的なことをおこなっていきました。
一つの実践を完成させては、その次の実践を積み重ねます。
そのようにして、私は少しずつ前進していきました。
もちろん、それには意識的な努力が必要でした。
「何が何でも前進するのだ!」という意志の力も必要でした。
そうして、地図を少しずつ塗り潰していくように、私は地歩を固めていったのです。
こういった探求の仕方は、ある意味で「男性的」と言えます。
こうした「男性的な探求者」は、実践の方法についてあくまでも論理的に分析し、その効果を絶えず科学的に検証します。
実際に試して「効果がある」と判定した場合にだけ、その技法をとことん実践し、その自分の実践を足掛かりにして、さらに高度な実践へと進んでいきます。
それはまるで、「未踏の地」を徐々に踏破していくかのようです。
「男性的な探求者」はこのように、努力と意志の力によって、少しずつ前進していくのです。
◎「女性的な人々」は、努力を必要とせずにくつろげる
それに対して、世の中には「純粋な人々」もいます。
そういった人々は、ある意味でもっと「女性的」です。
「女性的な人々」は、難しい理屈はよくわかりませんし、興味もありません。
そして、「未踏の地」を努力して踏破していくことよりも、「我が家」でくつろいでいるほうがずっとマシだと考えているのです。
私は実のところ、こういった人々には技法は必要ではないと思っています。
むしろ、「女性的な人々」が技法について学びすぎると、せっかくの「純粋さ」が損なわれるかもしれません。
なぜなら、もしも数々の技法に関する説明を当人が頭に入れすぎてしまうと、「人間というのは、こんなにたくさん努力をしないと『至福』には辿り着けないんだ…」という風に、その人は思い込んでしまう可能性があるからです。
ですが、もしも当人が本当に「純粋」ならば、今この瞬間にでも「至福」は可能です。
ただ何もしないでくつろいでいればいいのです。
どこにも行こうとせず、何も手にしようとせず、ただ「あるがまま」に留まることができるなら、その時、「至福」は湧き出してきます。
実際、「女性的な人々」に技法は必要ありません。
むしろ、技法について学ぶことで頭でっかちになってしまうと、「何もせずくつろぐこと」ができなくなってしまう恐れがあります。
なぜなら、当人が「くつろごう」と思っても、頭に入れた技法の知識がちらつくことで、「やっぱり何かしたほうがいいんじゃないだろうか?」と疑心暗鬼になってしまうからです。
ですので、もともと「純粋」な人については、私の書いた記事をそもそも読まないほうがよいかもしれません。
何も頭に入れなくてもくつろぐことができるのであれば、「至福」は既にその人のものです。
逆に、知的好奇心から私の記事を読むことによって、「『至福』というのはずっと遠くにあるものなんだ」「だから、自分は一生懸命に努力して、それを達成しないといけないんだ」と「男性的」に考えるようになってしまったら、取り返しがつきません。
実のところ、「至福」というのは達成されるものではありません。
それは、当人がもはやどこにも行こうとせず、心の底から「今ここ」に留まることができれば、すぐにでも感じることができるものなのです。
「女性的な人々」は、既にそのすぐ近くまで来ており、あとはただくつろげばいいだけの状態です。
それゆえ、「だったら、技法をするだけ余計なことだ」と、私は思うわけなのです。
◎「男性的な探求者」には「確信」を作り上げる時間が必要
そもそも「男性的な探求者」にとって努力が必要なのは、「何の期待もせずに待つ」ということができないからです。
実際、「男性的な人々」は常に計算し続け、疑い続けます。
「本当にこれで合っているのだろうか?」
「『至福』などというものが実在するのだろうか?」
そのような疑いがあるからこそ、自分の中に「確信」を作り上げる手間をかけねばなりません。
つまり、日々実践を積み重ね、「自分はこれを成し遂げた」「自分はこれがわかるようになった」という「手応え」を蓄えないと、彼らは自分の進んでいる道に対して「確信」を持つことができないのです。
こうした「手応え」の積み重ねもなく、いきなり「何の期待もせず待つ」ということは、「男性的な探求者」にはできません。
きっと当人は「まだやり残したことがある気がする」とか、「そう簡単に『ゴール』に到達するはずがない」とかいったことを、無意識に考えてしまうはずです。
そして、そういったことを考えてしまっているがゆえに、「何も期待せずリラックスする」ということが絶えず阻害されます。
その結果、当人は「至福」を逃し続け、いつまでも「自分自身」に安らぐことができないわけです。
「男性的な探求者」が安らぐことができるのは、「もうこれ以上できることはない」と納得できるまで実践をやり抜いた時です。
それはまさに、「人事を尽くして天命を待つ」という状態です。
「やれること」を全て限界までやり尽くした後に、当人はようやくゆっくり休むことができます。
「これ以上、自分にできることはない。あとのことはもう天に委ねて、ゆっくりしよう」
このように考えることができるようになった時、当人はやっと「我が家」に帰り着きます。
そこには「穏やかで懐かしい感覚」があり、当人はようやくその中でリラックスすることができるのです。
しかし、「女性的な人々」は、こんな回り道をする必要がありません。
「女性的な人々」の場合、もしもリラックスするのであれば、今この瞬間にくつろげばいいだけです。
そして、もしそこで湧いてくる「心地よい感覚」を当人が素直に認めて信じるならば、その「幸福感」は次第にその人にとって呼吸のように自然なものとなっていくでしょう。
◎「男性的な探求者」だけが、「真理についての作り話」を継承していく
こういったわけで、私が書いたものに限らず、技法について解説を読む時には注意が必要です。
つまり、「そもそも自分は技法の実践を必要とするタイプなのかどうか?」ということを、ちゃんと把握しておくことが重要なのです。
もしも技法が必要なのであれば、迷わず技法をおこなえばよいでしょう。
でも、もしも技法を必要としない人であるならば、技法について学ぶとかえって道に迷いかねません。
「じゃあ、いったいどうやって判定したらいいのか?」という話ですが、確認する方法は簡単です。
何もせずにくつろいでいて、「問い」が浮かんで来るかどうかで判定します。
たとえば、何もせずにくつろごうとした時に、「こんなことして何の意味があるんだ?」とか、「こんなことしていて、本当に『至福』がわかるのだろうか?」とかいったことをわずかでも考えるようであれば、その人は「男性的な探求者」です。
つまり、私と同じタイプということになります。
その場合は、技法を実践して一歩一歩進んでいく必要があります。
逆に、何もしないでくつろごうとした時に、内側に何の抵抗も感じず、いかなる「なぜ?」も浮かんでこないなら、その人は「女性的な探求者」です。
その人の身体の性別が男性であるか女性であるかにかかわらず、何も心配しないでくつろげる人は「女性的」です。
そういう場合には、技法に頼る必要はありません。
ただ「在ること」の内にくつろいでいれば、「至福」に留まることができるでしょう。
そして、そのまま日常的にも「至福」に留まり続けるならば、やがては「悟り」に到達するはずです。
というのも、「真理」を最初に理解する時、その理解は「知的」にではなく「感覚的」に起こるからです。
つまり、「真理の探求」における「最後の一歩」は、知的にではなく感覚的に訪れるのです。
【最終回】「世界の実在性」が崩壊する時|「世界」という最後の束縛からの自由について
いずれにせよ、「悟り」に至るために「知的な理解」は必須ではありません。
実際、「真理」を感覚的にだけ理解して、そのままあえて言語化しなかった覚者もこれまでたくさんいたと思います。
ただ、そういった人々は、弟子を教え導いたりもしなかったでしょうから、歴史の中にほとんど名前が残らなかったのでしょう。
それに対して、「男性的な探求者」は「真理」を感覚的に理解した後、それについて「理論的な体系」を構築することがあります(私がやっていることはまさにそれです)。
そうして構築された「理論的な体系」は、「後に続く人たちの支えになるように」との願いを込めて作られた、一種の「作り話」です。
ですが、後から来る探求者たちは、その「作り話」を拠り所にして真剣に実践することで、道に迷うことなく前進することができます。
そして、その探求者たちもいつかは「真理」に辿り着き、「新たな作り話」を構築しては、弟子へと受け渡していくのです。
そういう意味で、「探求の歴史」というのは「男性的な探求者の歴史」です。
逆に、「女性的な探求者」は歴史に名を残すことが難しいです。
それは、「女性的な探求者」が「男性的な探求者」より劣っているからではありません。
そうではなくて、ただ単に「女性的な探求者」は「男性的な探求者」と違って、「真理」を理論的に分析することに対してそもそも興味を持っていないというだけの話なのです。
◎終わりに
ということで、今回は「男性的な探求者」と「女性的な探求者」について書いてみました。
記事の途中でも言いましたが、これらは身体における性別とは関係ありません。
身体が男性であれ女性であれ、「努力と意志」を重視するのであれば、その人は「男性的な探求者」です。
また、身体の性別にかかわりなく、「受容と明け渡し」が可能なのであれば、その人は「女性的な探求者」と言えるでしょう。
自身がいったいどちらのタイプであるのかを自覚することは、「真理の探求」において非常に重要です。
「まだ確認してみたことがない」という人は、ぜひ一度確かめてみてください。
もしも、いかなる努力も必要とせず、何もしないことの中にくつろげるなら、技法の実践は不要です。
その場合は、何もしないことの中で感じる「心地よさ」だけを拠り所にして淡々と生きていけば、いずれ「悟り」に到達するはずです。
でも、もし仮に、黙っていると無意識に疑問が浮かんできてしまうのであれば、その時には技法の実践が助けになるでしょう。
そうして技法の実践を日々積み重ねていくことによって、「迷い」は日に日に小さくなり、「確信」は日に日に大きくなっていくはずです。
そして、その「確信」が十分に育った時、当人は努力することなく「沈黙」の中に留まれるでしょう。
いずれにせよ、自分のタイプを見極めて、進むべき道を決めてください。
この世には「絶対的に正しい道」というものはありません。
ただ、「あなたに合う道」と「あなたに合わない道」があるだけです。
必要なのは、「あなたに合う道」を見定めることです。
そして、もしもそれを見定めることができたなら、後はとてもシンプルな話になっていきます。