今回は、「幸福とは何だろう?」ということを考えてみたいと思います。
いわゆる「幸福論」というものですね。
「人はどうすれば幸福になれるのか?」
「真の幸福とは何なのか?」
そういったことを考えるのが、「幸福論」なのではないかと思います。
これまで、古今東西の哲学者たちが、様々な「幸福論」を唱えてきました。
でも、そういったものは、探求者が最終的に辿り着く「幸福論」とは少し違っているかもしれません。
いえ、ひょっとすると、「決定的に違っている」と言ってもいいかもしれないです。
「いったいどこが違っているのか?」
今回はそれについて考えてみようと思います。
では、始めていきましょう。
◎「幸福」という「主観的な感覚」さえ所有したがる現代人
そもそも、「幸福とは何か?」ということを積極的に定義することは難しいものです。
なぜなら、「幸福」というのは、あくまでも「主観的な感覚」だからです。
実際、どんなに貧しくても「自分は幸福だ」と感じていれば、その人は「幸福」なわけですし、逆に、どれほど財産を持っていても、「自分は不幸だ」と感じていれば、その人は「幸福ではない」わけなのです。
そういう意味では、「幸福」というものはあくまで「主観的な感覚」であって、外側から定義することができないということになります。
でも、そうすると困ってしまう人々が出てきます。
それは、「今の自分は不幸だ」と感じて現に苦しんでいる人たちです。
彼らは常日頃から「自分は不幸だ」と感じて苦悩しています。
だからこそ、「何とかして幸福になりたい」と渇望してもいます。
そしてこの渇望が、「どうすれば幸福になれるのだろう?」という問いを当人の中に生み出し、「幸福になるための条件探し」へと当人を連れ出していくのです。
しかし、先ほども書きましたように、「幸福」というのはあくまで「主観的な感覚」であって、究極的には外側の条件とは関係がありません。
それゆえ、たとえ「この条件をクリアすれば幸福になれる」といくら言われていても、実際にその条件を達成した時に本当に「幸福」になれるかどうかは、誰にもわからないのです。
「幸福」というのは、そういう意味で「捉えどころのないもの」です。
ですが、現代人の多くはそんな「捉えどころのないもの」であっても、全部コントロールしたがります。
家や車を所有するように、「幸福」まで物のように所有したがるのです。
一般に、「所有欲が強い人」というのは、コントロール欲求も強い傾向があります。
そうした人は、「幸福」をコントロールしようとするだけでなく、生身の人間も物のように扱いがちです。
たとえば、恋人を物のように利用したり、部下を物のように使い捨てたりする人たちは、実際のところ、そうやって他者を支配していないと不安で仕方ない人たちです。
そして、その不安の根本にあるものも、「幸福への渇望」だったりします。
なぜなら、既に「幸福」の中で安らいでいる人であれば、「他人を支配することで自分の心を満たそう」とは、そもそも考えないはずだからです。
つまり、彼らが見せる「支配欲」が、「彼ら自身はまだ幸福ではない」ということを雄弁に物語っているわけです。
◎「幸福」を積極的に定義することにおける限界について
私が見るところ、世の中で語られる「幸福論」の多くは二つの側面を持っています。
一つは、「これこれという条件を達成したら、人は幸福になれる」という仕方で、「幸福」を積極的に定義しようとする側面です。
そしてもう一つは、「人はこのような状態になったら不幸になる(だから、それを避けましょう)」という仕方で、「幸福」を消極的に定義しようとする側面です。
「前者の幸福論」においては、「幸福」はある種の物のように考えられています。
たとえば、「100万円用意すれば、車を買えるようになる」と言うのと同じように、「この条件さえクリアすれば、あなたも『幸福』を手に入れることができる」と語りかけるのです。
世の中の大半の人は、おそらくこの方法で「幸福」について考えているのではないかと思います。
たとえば、「年収が1000万円に到達したら、きっと自分は『幸福』になれるはずだ」と考えたり、「理解のある配偶者を得て、家族と暮らすマイホームが手に入ったら自分も『幸福』になれるはずだ」と考えたりします。
つまり、「何かを手に入れて所有すれば、それと一緒に『幸福』も所有できるはずだ」と思うわけです。
ですが、実際にそれらを手に入れても、「幸福感」が得られるのは一時的であり、すぐに当人は「現状」に満足できなくなってしまいます。
それで、「まだ足りないということなのか…」と思って、「もっともっと」と求め続けることになるわけです。
前にもどこかで書きましたが、富豪たちが最も多く自殺するのは、自身の社会的成功がピークに達した時であると言われています。
それは、成功の頂点を極めた時に、当人が「これ以上もう所有できるものはない」と悟ってしまうからです。
「ありとあらゆるものを求めてきて、それらを全て手に入れたのに、相変わらず自分は『不幸』なままだ。だったら、これ以上いったいどうしたらいいのだ?」
そのように考えて絶望し、彼らは自分の手で命を絶ってしまうわけです。
「幸福」を物と同じように所有しようとすることの問題点はここにあります。
それは、際限がないということです。
かつてどれほど求め続けていた物であっても、一度達成したら、それはもう「過去」になってしまいます。
嬉しいのは達成した直後の数日くらいのものであって、当人はすぐ「現状」に不満を感じ始めます。
そして、その不満を解消するために、どこまでも走り続けるしかなくなってしまうのです。
◎「幸福」を消極的に定義することにおける問題点について
このように、「幸福」について「何らかの外的な条件」を設けて積極的に定義しようとすることは、人々を「終わりのない幸福追求のレース」へと招き入れることになりがちです。
人々は「一時的な喜び」を求めて懸命に努力し続けますが、最終的には誰もが「満たされなさ」と直面することになってしまいます。
これが世の中の多くの「幸福論」が持っている一つ目の側面です。
もう一つの側面は、「幸福」ではなく「不幸」のほうを定義しようとするものです。
たとえば、「年収200万円以下は絶対に『幸福』になれない」とか、「恋人も友人もいない人間は必ず『不幸』になる」とかいった具合です。
これらの例を見てもらえればおわかりいただけると思いますが、この考え方は結局、先ほどの「幸福を積極的に定義する見方」をクルッとひっくり返しただけのものです。
つまり、「幸福」ではなく「不幸」のほうを積極的に定義することで、消極的に「幸福」を定義しようとしているわけです。
ここにおいては、いかにして「不幸(とされる状況)」を避けるかが至上命題となります。
もしも「不幸(とされる状況)」に陥ってしまったら、当人は「自分は失敗したのだ」と感じ、「このままでは自分は『幸福』になることができない!」と焦り始めます。
そうして焦ってもがいた結果、どうしても「不幸(とされる状況)」を抜け出せなかった場合には、当人は深い自己嫌悪や無力感に陥ることになるでしょう。
人によっては、自分のことを「人生の敗残者」のように感じて、「惨めな気持ち」になることもあるかもしれません。
逆に、「不幸(とされる状況)」を運よく避けられた人々も、安心していることはできません。
なぜなら、人生というのは何があるかわからないからです。
つまり、いつ「今の状況」が崩壊して転落するかは、誰にも予測できないのです。
このように、「不幸」を積極的に定義することで「幸福」を消極的に定義しようとする試みは、結局のところ、誰のことも「幸せ」にしません。
もしも「不幸の定義」に当てはまってしまった人は、自分ことを「無価値な人間だ」と感じて苦しむでしょう。
また、運よく「不幸の定義」を回避できた人も、「自分だっていつ転落するかわからない」という潜在的な不安を抱え込みながら生きていかねばならなくなります。
つまり、「不幸の定義」に当てはまった人が「不幸」になるだけでなく、「不幸の定義」を抜けられた人もある種微妙な形で「不幸」に縛り付けられるわけです。
これが、「幸福」について消極的に定義する場合の問題点です。
◎私たちの存在の本質は、なぜかわからないが「至福」である
このように、「幸福」を積極的に定義する試みも、逆に「幸福」を消極的に定義する試みも、だいたいにおいて「失敗」します。
たとえどんな条件を設けても、あいかわらず人間は「幸福」を渇望し続け、「不幸」を恐れ続けるからです。
そうして、「一時的な幸福感」と「底なしの欲求不満」との間を、人々は終わりなく行き来し続けることになるのです。
しかし、ここまで長々書いてきましたが、自分の人生や世の中の人々をよく観察している人というのは、以上のようなことは既に十分わかっているのではないかと思います。
そして、このことを理解できた人だけが、「探求の道」へと向かいます。
そもそも、「幸福」を積極的に定義することは、「幸福」を相対化することです。
逆に、「不幸」を積極的に定義することもまた、結果的に「幸福」を相対化することに繋がります。
人々は「『幸福』だけが欲しい!『不幸』はいらない!」と言いますが、それは無理というものです。
「相対的な幸福」の存在は、「相対的な不幸」の存在を必要とします。
つまり、相対的な次元で「『幸福』でありたい!」と願っている限り、当人の中にはどうしても「不幸」が同時に生まれてしまうのです。
そういう時、探求者はこう問います。
「それなら『絶対的な幸福感』というものは本当に存在しないのか?」
この問いの答えを探す旅が、「真理の探求」です。
そして、もしも探求を続けるならば、その答えはやがて見つかります。
それはインドの古い哲学では「アーナンダ(至福)」として知られているものであり、仏教ではそれを「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」と呼んでいます。
技法の実践を重ねる中で、探求者の内側からは多くのものが消えていきます。
思考が消え、感情が消失し、「自我」が沈黙し、内側に「静寂」が訪れます。
そこには「幸福に対する渇望」もなければ、「不幸に対する恐れ」もありません。
「無」です。
そして、この何も残っていない「空(くう)」の中で、当人はなぜか「幸福感」を感じ始めます。
それはとても穏やかで懐かしい感覚であり、当人はその感覚の中で深くリラックスすることができるのです。
ただ、私はなぜ「空(くう)」の中で「幸福感」を感じることになるのかを、論理的に説明することができません。
なぜなら、何もかも残らず消えた時に現れてくるものが、「幸福感」でなければならない理由はどこにもないからです。
しかし、とにかくなぜか「空(くう)」の中で現れるのは、いつも決まって「幸福感」なのです。
だとするならば、私たちの存在がもともと持っている「質」というものが、どうしてかわからないけれど「幸福」なのだと考えるしかありません。
でも、それは当人にとってよいことです。
なぜなら、その時に当人は「絶対的な幸福」というものを知ることになるからです。
そして、その存在を自分自身で確かめるために歩む道が、「真理の探求」と呼ばれるのです。
◎「絶対的な幸福感」こそが、私たちのことを自由にする
もしも「何も残っていないこと」が「幸福」であるならば、もう「幸福」になるために何かを追いかける必要はなくなります。
なぜなら、「内側に何も所有していないこと」が、そのまま「幸福」を意味すると理解できるようになるからです。
また、「何も残っていないこと」が「幸福」であるがゆえに、持っている物を失う恐れからも解放されます。
と言うのも、当人はもう「たとえ何を失っても、それによって自分が『不幸』になるわけではない」と知っているからです。
このことを理解して初めて、「相対的な幸福」と「相対的な不幸」の両方から自由になれます。
もう何かを追い求めることもなければ、何かから逃げ続ける必要もなくなります。
「幸福への渇望」と「不幸への恐怖」の両方が同時に落ちるのです。
そしてだからこそ、彼にとってはもはや、「社会的な成功」も「社会的な失敗」も、どちらも同じだけ無意味になっています。
彼はたとえ「成功」しても「幸福」でしょう。
なぜなら、彼の中には「さらなる成功へ渇望」がなく、同時に「今の成功を失うことへの恐れ」もないからです。
また、彼はたとえ「失敗」しても、やっぱり「幸福」なままでしょう。
なぜなら、たとえ貧しくなって社会的に孤立することになったとしても、彼は既に満たされているからです。
そして、「『成功』も『失敗』も人々が決めることであって、自分が決めることではない」と理解しているがゆえに、彼は「成功」と「失敗」のどちらにも「執着」しないのです。
ですから、「探求者のとっての幸福論」は、「世間一般の幸福論」とその順番があべこべになっています。
「世間一般の幸福論」は、「どうやって《これから》幸福になるか?」を論じます。
人々は今現に「不幸」であり、「幸福」を渇望しているからです。
ですが、「探求者にとっての幸福論」は、「《既に》もう幸福である」というところからスタートします。
だからこそ、彼にとっては世間の人々が語る「幸福」と「不幸」はどちらも束縛になることなく、「成功」と「失敗」も等しく無意味に見えるのです。
もちろん、探求の途上にある探求者は、まだその「絶対的な幸福感」を知りません。
ですが、世の中の多くの人々と違って、「そこにしか自分を救う道はない」と彼/彼女は確信しています。
そして、この「確信」こそが、最終的には当人の束縛を破壊し、自由をもたらしてくれるのです。
◎終わりに
いかがでしたでしょうか?
「どうすれば幸福になれるか?」ということを知りたかった方は、肩透かしを食らってしまったかもしれません。
ですが、私の答えは変わりません。
たとえどのような状況に置かれようとも、あなたの存在の本質は本来「幸福そのもの」です。
でも、多くの人々はその「存在する喜び」が現れるまで、待っていることができません。
あまりにも「幸福」に対する渇望が激しすぎるので、自分の内側が「空(くう)」になるまで、何もしないでジッとしていることができないのです。
もしも「存在する喜び」を求めているのであれば、下記リンク先の連載記事を参照してください。
誰に対しても必ず役に立つわけではないと思いますが、ひょっとしたらあなたにとって助けとなる部分があるかもしれません。
あなたが「本来の自分自身」へと至りつき、「至福」を見つけられることを祈っています。
