【注意喚起・再び】「技法の森」の中で迷子にならないために|技法はしょせん「道具」と心得る

◎「ある教え」と「別の教え」の間で引き裂かれた経験

連載記事以外の単発記事もいくらか数がそろってきたので、そろそろ注意喚起も兼ねて記事を書いておこうと思います。

連載記事の中でも一度書きましたが、私の記事はあんまりたくさん読み過ぎないほうがよいです。

【注意喚起】技法の実践において、「情報の詰め込み」が問題となる理由

技法の実践をする時は、「少しだけ学んでたくさん実践する」というバランスがよいと、私自身は思っています。

というのも、「たくさん学んで少ししか実践しない」という場合、当人は道に迷うばかりでなかなか前進できないからです。

私自身は、山家さんの空白JPに出会うまでは、本当にいろいろな技法を実践していました。

とにかく「手あたり次第」という感じで、瞑想法や呼吸法だけでなく、ボディワークや心理療法などにも手を出していたくらいです。

しかし、そうやってたくさんの教えに触れるようになると、困った事態に陥ります。

それは、「ある教え」と「別の教え」との間に、矛盾点を見つけてしまうということです。

たとえば、「ある教え」では「瞑想する時は目を閉じてすること」と言っているのに、「別の教え」では「瞑想する時に目を閉じてはいけない」と言っていたりします。

また、「神のイメージを想起せよ」と言う「教え」もあれば、「瞑想の中に神が現れたらすぐ殺せ」と言う「教え」もあります。

もちろん、それらの「教え」それぞれにはそのように言うだけの理論的な背景があるわけですが、それらを初心者が全部頭に入れようとすると、大混乱に陥ってしまうでしょう。

実際、過去の私は大混乱に陥りました。

「いったい誰の言っていることが正しいんだ?」と思いましたし、「誰についていくのが正解なのだろう?」とも思いました。

そして、どの技法を実践するのが最も適切なのか判断することができなくなり、かつての私はフリーズしてしまったのでした。

◎「真理」はたった一つだが、そこに至るまでの「道」は人それぞれ

こういう状態になると、どんな技法も役に立たなくなります。

むしろ、技法について知れば知るほど、当人にとってそれらの情報は害にさえなるかもしれません。

ですが、当時の私は一つ「勘違い」をしていました。

それは「『正しい技法』というものがこの世のどこかに存在する」と思い込んでいたことです。

たとえば「教えA」と「教えB」があった時、私は「きっとどちらかが正しくて、もう片方は間違っているのだ」と考えていました。

だからこそ、「どっちを実践するべきか」と悩みもしたわけです。

ですが、技法というのはあくまでも「真理」に到達するための「道具」であって、それそのものに「真実」も「非真実」も存在しません。

単に、人によって「使い勝手の良い技法」と「使い勝手の良くない技法」が存在するだけです。

たとえば、右利きの人は一般に売られているハサミを使っても不便を感じません。

でも、左利きの人は「左利き用に作られたハサミ」を使わないと、うまく紙を切ることができないでしょう。

それは別に、「右利き用のハサミ」が正しくて、「左利き用のハサミ」が間違っているという話ではありません。

ハサミはあくまでも「道具」であり、「自分にとって使いやすいもの」を各自が選んで使ったらいいだけの話です。

もちろん、「真理」そのものは一つです。

あらゆる教えが指し示している「ゴール」に違いはありません。

ただ、その「ゴール」に到達するための方法は、人の数だけ存在します。

それはちょうど、「山に登る仕方」が人の数だけあるのと同じです。

最終的には誰もが「頂上」に到達します。

でも、その過程は同じではありません。

険しい道を一気に突っ切る人もいるかもしれませんし、なるべくなだらかな道を選んでじっくり登っていく人もいるかもしれません。

要は、「各自がそれぞれの体力や意志の強さに合わせて、コースを選んだらいい」というだけの話なわけです。

◎「師の教え」にしがみついて論争を巻き起こす「追従者」たち

しかし、世の中には、このことをわからないまま「教え」を説く人たちがいます。

そもそも、「真理」を自分で理解した人、つまり、「山の頂上」に自分の足で辿り着いた人は、「真理は一つだが、そこに至る道筋は人の数だけ在る」と知っています。

でも、その人の「教え」を聞くだけでまだ「真理」を理解していない人たちは、「自分の師の教えだけが唯一絶対の真実なのだ」と考えてしまうことがあるのです。

ここから「終わりのない論争」が勃発します。

それぞれの宗派や学派に属する人々が、「自分たちの教えこそが唯一の真実だ!」と言い合って、お互いの細かい違いを指摘しては、「お前たちは間違っている!」と言い続けることになるわけです。

でも、そんなことをしても何の意味もありません。

「右利き用のハサミ」と「左利き用のハサミ」は、そもそも「対象としている使用者」が違うのです。

「どっちが正しい」ということを言っても無意味ですし、ある意味では「どっちも正しい」のです。

ですが、自分自身では「真理」を理解できていない人たちは、「技法や教えというのは、しょせん『真理』を理解するための方便に過ぎない」ということがわかりません。

それゆえ、「師の教え」を「自身の自我」と同一化させてしまって、「自分の正しさ」を主張するために、「師の教え」を引っ張り出してくるのです。

多くの探求者が混乱してしまうのは、ある意味でこういった人々がいるからなのかもしれません。

なぜなら、「教えを聞こう」と思って近づいた先の相手が、誰もかれも「自分こそが正しい!他の教えは間違っている!」と言っているからです。

「じゃあ、いったい誰についていったらいいんだ?」と探求者が思うのも、当然のことだと思います。

私がそんな探求者にかける言葉は、「とりあえず、何でもいいから一つの技法をやってごらん?」というものです。

その技法が自分に適しているかどうかは、実際に試してみるとわかるものです。

技法を実践してみても、効果を感じられないなら、それは「自分向き」ではないのかもしれません。

だったら、それはさっさと捨てて、他の技法を探すほうがいいでしょう。

もちろん、だからといって簡単に次から次に乗り換えていたら切りがないでしょう。

だから、一度「やる」と決めたら真剣にやることを推奨します。

言われたことをきっちり守って、変に自分流にアレンジしたりせず、そのまま実行してみるのです。

そうして、1ヶ月経っても何の変化も感じなかったら、その時は、そろそろ別の技法を試してみてもいい頃合いかもしれません。

◎技法や教えは探求者が前進するために師によって作られた「虚構」である

いずれにせよ、技法や教えというのは「道具」だということを忘れないことが大事です。

「道具」そのものが「真理」なわけではありません。

それはあくまで「道具」に過ぎず、ある意味においては「虚構」です。

つまり技法というのは、探求者が前に進むために師によって作られた「よくできた嘘」のようなものです。

実際、「真理」に到達した人はみんな、そのことを知っていると思います。

もしも「真理」を理解すると、教えや技法は徐々に当人の中から消えていきます。

なぜなら、それらは結局のところ「道具」であり、「絶対的なもの」ではなかったのだと、当人には理解されるようになるからです。

でも、探求がまだ終わっていない人にとっては、「進むための支え」が必要です。

「道しるべ」がなければ、怖くて進めない人もいるかもしれません。

そういう人たちが迷ったり立ち止まったりしなくて済むように、技法や教えというものはあります。

なので私は、技法や教えそのものについては、そんなに有難がって受け取らなくてもいいのではないかと思っています。

それは結局のところ「道具」なのですから、「自分にとって使い勝手の良いもの」を探して、それをただ使えばいいと思うのです。

◎連載記事と単発記事は、「対象としている読者」が異なっている

ということで、話が戻ってきますが、私は最近、連載記事とは別の単発記事をいくつか書いています。

そして、連載記事と単発記事を書く時では、私の中で明確にターゲット層が違っています。

連載記事は、「探求の道筋全体」を網羅的にカバーしています。

いわば、「真理の探求」におけるツアープログラムです。

山のふもとから始まって、
「はい、次はこっちの道に行きますよー」と言ってガイドして、
「そこは穴があいてますから気を付けてくださいねー」と注意喚起し、
「あんまりそっちに行くとコースから外れて道に迷いますよー」と言って引き戻します。

その上で、「ここが山の3合目です、ここまで行ったら5合目です」とマイルストーンを置いていって、探求の進捗度を探求者自身が確認できるようにも設計しているつもりです。

なので、道に迷ったらとりあえず参照してもらいたいのが、連載記事です。

それに対して、単発記事のほうは、連載記事で扱いきれなかった論点や、そもそも連載記事とは全く違った角度からの論考などを書いています。

それらは、「連載記事を書いている時は気づかなかったけど、こういうことで困っている人もいるかもしれないな」という視点から書かれています。

つまり、連載記事で扱っている技法とは、そもそも対象者が違うのです。

それはつまり、「連載記事で扱っている技法」と「単発記事で扱っている技法」とは、「別々の道具」であるということです。

それは「右利き用のハサミ」と「左利き用のハサミ」の場合と同じように、「どっちが正しい」というものではありません。

ただ、「対象者」が違うのです。

このことをよく理解してください。

私はだいたい単発記事で技法の紹介をする時には、記事の冒頭で対象者を設定していると思います。

「こういうことでお困りの方は、この技法が役に立つと思います」と言ってから、いつもだいたい書き始めているはずです。

なので、もしも対象者に含まれていないにもかかわらず私が書いた記事を読むと、かえって混乱する可能性があります。

なぜなら、「技法の対象者」が異なる場合、技法の中身も相互に矛盾する場合があるからです。

◎矛盾を矛盾なく受け入れられるまでは、乱読しないほうがいいということ

実際、私の言っていることは、全部が全部首尾一貫しているわけではないと思います。

なぜなら、紹介する技法の種類によって、対象としている相手が違うからです。

そのことをわからないまま、私が書いた記事を乱読すると、「あれ、こっちで言ってることって、あっちで言ってたことと矛盾してない?いったいどっちが正しいんだ?」と言うような疑問に囚われかねません。

そうならないようにするためには、やっぱり「少しだけ学んでたくさん実践する」という方針を崩さないことが大事なのだと思います。

もちろん、今回の記事の内容を本当に深く理解できている人は、別に私の言っていることが矛盾していても、それを気にすることはないでしょう。

「まあ、そりゃ、そういうもんだよな」とすんなり受け入れられるのではないかと思います。

しかし、もしも今回の記事の内容がまだいまいちピンと来ていないのであれば、単発記事の乱読は控えたほうがいいと思います。

もちろん、私以外の他の人が教えている技法を実践するのも自由ですけれど、その場合は「これをやる」と一つに決めて、真剣に実践することをオススメします。

そうしないと、きっと「技法の森」の中で迷子になってしまうでしょう。

◎終わりに

ということで、今回は注意喚起の記事でした。

最近、どうも熱心な読者の方がおられるようなので、「熱心過ぎるがゆえにかえって道に迷うことがないように」と思って、今回の記事を書きました。

今回の記事を読んで心当たりがあった方は、「少しだけ学んでたくさん実践する」というこの方針を、ぜひ忘れないでほしいと思います。

ではでは。