私は過去に武道の道場で7~8年くらい稽古をしていたことがあります。
その時の「失敗談」について、前に一つ記事を書きました。
【筆者の失敗談】探求で出会う「よくある罠」|「霊的な覚醒」は悟りに必要なのか?
その道場では、瞑想法や呼吸法が指導されていて、私はそれらの実践を通して、ちょっとした「霊的能力」のようなものが開花しました。
でも結局、当時の私はあまりにも承認欲求が強かったために、自分の能力に飲み込まれてしまい、「自我」が暴走して最終的には道場を破門になってしまった、という話です。
今回は、この時の経験に関して、また別な角度から考えてみたいと思います。
それは、「不動心」についてです。
私が所属していた道場に限らず、武道の道場では「不動心」という言葉はよく出てくるのではないかと思います。
なんらかの武道を稽古したことのある人は、師範から「考えるな!無心であれ!」と言われた経験があることでしょう。
でも、「無心」とか「不動心」とかいったものが、実際のところ「どういう状態」のことなのかは、あまり明確に言語化されません。
私も詳しく説明された覚えがないです。
にもかかわらず、ほとんどの武道経験者が「不動心」のことを「大事なもの」だと考えているように思います。
なんだか不思議な状況です。
そこで今回の記事では、「不動心」について考えてみたいと思います。
道場を破門になってから真理の探求を始め、その探求が終わった今だからこそ言語化できることもあるのではないかと思います。
今、現に何らかの武道を稽古されていて、「不動心って、結局のところ何なのだろう?」と疑問に思っている人は、参考になる部分もあるかもしれません。
では、いってみましょう。
◎まず最初に断っておきたいこと
まず最初の断っておこうと思いますが、私は武道の道場を破門になってから既に10年近くが経過しており、今はもう稽古を一切していません。
ですから、今回考える「不動心」の効用についても、実際に稽古を通して検証したものではないです。
あくまで真理の探求が終わった後になって振り返った時、「『不動心』というものの意味は、実はこういうことだったのではないだろうか?」と考察してみただけに過ぎません。
そういう意味で、今回の考察のベースはあくまで「真理の探求における私自身の経験」であり、考察の結果それ自体を、武道の稽古を通じて実地検証はしていないということです。
いわば、「出家する前に武道を稽古していた坊さんが、悟った後に武道について物申している」ような状態です。
もちろん、過去には沢庵禅師の教えが宮本武蔵や柳生宗矩といった武術家に影響を与えた事例もあります。
しかしそれでも、「私自身が今回の考察について自分でその妥当性を検証したわけではない」ということは事実ですので、そのことだけは、今の時点で明示しておきたいと思います。
◎「今ここ」に集中することで、思考や感情に翻弄されなくなる
では、逃げも打ったことですし、話を始めていきましょう。
「不動心」とは何か?
文字としてみると、「動かない心」ということになります。
では、「心」って何でしょう。
これについては、人によって解釈がまちまちです。
ひょっとすると、心理学者同士の間でも統一的な見解はないのではないかと思います。
なので、あくまで今回は私流に解釈していきます。
私にとって「心」とは、思考や感情が束になったものです。
探求の世界では「マインド」とも呼ばれます。
そこに実体と呼べるものはなく、あらゆる思考や感情が浮んでは消えていきます。
そして、それらの思考や感情には基本的に脈絡がありません。
たとえば、ついさっきまで昨日仕事でした失敗のことを考えていたと思ったら、ふとした瞬間に目に入った食料品の広告を見て、「あ、そうだ買い物行かなきゃ」と私たちは急に思ったりします。
実際、私たちの内側では無数の思考や感情が無秩序に行き交っており、私たちはあっちに行ったかと思うと、次の瞬間にはもう別の方向に行っていたりするものです。
このような人間の「心」の特性を、時に覚者は木から木へと跳び移る猿になぞらえて、「モンキー・マインド」と言ったりもします。
実際、私たちの「心」は猿に似ているところがあります。
そこには「統一感」や「首尾一貫性」といったものはなく、その時々の状況や都合によって、思考も感情もコロコロと変わっていくものです。
だからこそ、人は自分の「心」に翻弄されてしまうこともあります。
自分でもコントロールが利かないのです。
実際私たちは、「こんなこと、もう考えたくない!」と思っても考えることをやめられず、突発的に湧いてきた感情に支配されては、もがいたり逃げ回ったりしています。
となると、「不動心」というのは、この「心(マインド)」が「不動」になっているということであり、それは「猿のように跳び回る思考や感情が大人しくなっている状態」と言えるかもしれません。
たとえば、瞑想の実践を続けていくと、思考や感情が沈静化して、内側に「静寂」が訪れるようになっていきます。
武道の道場でも瞑想を奨励しているところは多いものですが、それは「内側の猿」をきちんと躾けるために必要な処置ということかもしれません。
でも、「心」が静かになると、武道においてどんなメリットがあるのでしょうか?
まず一番のメリットは、「『今ここ』に対して集中できる」ということではないかと思います。
実際に武道の稽古をしたことがある人は経験的にわかると思いますが、稽古中には実にいろいろな思考が浮かんで来るものです。
たとえば、「あー、この技は苦手なんだよなー」とか、「ちゃんと相手に技がかかるかな?失敗して後輩の前で恥かきたくないなー」とか、「げげ、今回の稽古相手、あの人じゃんか!この人、技を無理やりかけるから嫌なんだよね…」とかとか、実にいろいろなことを考えるものです。
そして、そうやって考えることによって感情的にも動揺してくることがあります。
「失敗したらどうしよう…」とか、「先輩として威厳を示さないと!」とかいったことを考えて、ついつい力んでしまうことも多いものです。
ですが、こういった思考や感情の「ブレ」は、技のクオリティにも直接影響してきます。
当たり前ですが、「余計なこと」を考えていれば技の質は低下してしまいますし、「力み」があると実力は発揮できません。
つまり、「余計なこと」を考えず、「力み」を去って技をするためには、「心」が落ち着いていることが必要なのです。
思考や感情を去って、「今ここ」に集中している時、技のクオリティは向上します。
これが、「不動心」というものが武道で重視される理由の一つではないかと思います。
◎「無意識」によって瞑想を維持できるようになることの武道的効用
でも、当然ながら、話はここで終わりません。
なぜなら、「思考と感情を静かにする」というくらいのことであれば、瞑想を2~3年くらい修行すれば、だいたいの人はできるようになるはずだからです。
そんな低いハードルについて、これほど武道の道場で口酸っぱく教えるとも思えません。
つまり、「不動心」にはまだ「奥深い秘密」があると思うのです。
それはいったい何でしょう?
これについても、また私流の解釈をしてみたいと思います。
つまり、武道ではなく真理の探求において、「思考と感情が静まった後にすることは何か」を考えてみるのです。
なお、瞑想のプロセス全体の見取り図は、下記リンク先の記事にて示しています。
この記事の中でも示しているように、瞑想の実践は最初「集中する瞑想」から始まります。
「集中力」を意識的に行使することによって、強制的に思考や感情をシャットアウトするわけです。
ですが、この状態に留まっていると、常に集中し続けないと「瞑想状態(思考や感情のない静かな状態)」を保つことができません。
そこで、次に「集中しない瞑想」というのを実践します。
それは「自我」から「無意識」への瞑想のバトンタッチです。
「自我」が主体的に集中することで瞑想をしていた状態から、「無意識」を中心にして瞑想を委ねる状態へとシフトしていくわけです。
そうやって「無意識」へと瞑想の主体を委ねることで、特に努力して「瞑想しよう」と思わなくても、思考や感情が湧いてこなくなります。
そして、ゆくゆくは起きてから寝るまでずっと「無意識」に瞑想し続けることもできるようになっていくことでしょう。
これは、武道家にとっても望ましいことなのではないかと思います。
というのも、本来の武道家というのは、「いつどこで誰に襲われても勝利することができること」を目標にして稽古しているはずだからです。
道場の中で見知った稽古相手に技がかかるだけでは、実戦で役に立たないかもしれません。
かといって、「自我」を常に働かせて、起きてから寝るまで「集中する瞑想」を続けていたら、どこかで心身を壊してしまいます。
このため、特に意識して努力しなくても「瞑想状態」を維持できるようになっていることは、武道家にとっても大いに意味があるのではないかと思います。
実際、もしも「無意識」に瞑想を維持できるようになっていれば、出先で突然襲撃されても、「心」を揺らすことなく即座に対応することができるかもしれません。
となれば、「瞑想を無意識化する」ということは武道家にとっても大事な修行プロセスになるのではないかと思います。
◎「自我」との同一化が解けた人は、他人にマウントを取ったりしない
しかし、たとえ瞑想を「無意識化」しても、それで「ゴール」に辿り着けるわけではありません。
なぜなら、多くの場合、修行者はまだ「自我」と「意識(本当の自分)」との同一視が解けていないからです。
実際、真理の探求においても、「自我」と「自分」の混同は、避けることが難しいピット・フォール(落とし穴)の一つです。
たとえば、思考や感情が静まってくると、当人は「内側が静かになった。今、自分の内側には誰もいない」と考えることがあります。
しかし、実際にはそうやって「誰もいない」と言っている人がまだ残っています。
この、最後まで「誰もいない」と言い続ける者こそが、私たちの「自我」です。
「自我」とは、私たちの人格や自由意志を繋ぎ合わせて作られた一種の「虚構」です。
そこに実体はありません。
ですが、私たちの多くは、この「自我」に対して非常に強いリアリティを感じているものです。
「『自我』こそがまさに『自分自身』である」とさえ感じているかもしれません。
ですが、実際には「自我」は「本当の自分(真我)」ではありません。
瞑想の実践をずっと続けていくと、このことをある瞬間にふと悟ることがあります。
【第11回】「瞑想」の第三段階《理論と実践》|「自分は観察者だ」という錯覚に気づく方法
【第12回】「瞑想」の第四段階《理論と実践》|「自我」は「虚構」に過ぎないと理解する
そして、このことを理解できるようになると、実に様々な「勘違い」が自然と落ちていきます。
たとえば、「自我」が「虚構」であることを理解すると、当人は他人に対してマウントを取ろうとしなくなります。
「自分のほうが正しいのだ」と言ってことさら主張することをしなくなり、「相手を何が何でも言い負かさなければ」という風にも思わなくなります。
なぜなら、そうやってマウントを取っても、それによって喜ぶのは「自我」だけであると、当人には理解されるようになるからです。
逆に、「自我」と「自分」を同一視していると、他人に対して優越感を感じたくなってしまいます。
マウントを取って「自分のほうが優れている」と証明できれば、「自我」は「だから自分には価値がある」と思うことができます。
つまり、「自我の価値の証明」が「自分自身の価値の証明」であるかのように思い込んでいるわけです。
ですが、「自我」は一種の「虚構」であると理解すると、「自我」が「オレには価値がある」と思おうが思うまいが、当人にはどっちでもよくなります。
なぜなら、「自我」が思うような「自分の価値」というのはそれこそ「虚構」に過ぎないのであり、それは「本当の自分(真我)」とは何の関係もないということが、当人には十分わかっているからです。
この理解が起こることは、武道家にとっても大いにメリットがあるでしょう。
なぜならそれは、「相手に勝とうとする執着」の消失を意味するからです。
◎「執着=病」から離れることで、人は「居着き」から自由になる
ちなみに、先ほどの名前を挙げた柳生宗矩という武術家は、『兵法家伝書』という本の中で、このような「執着」のことを「病」と言って切り捨てています。
柳生宗矩は、「勝とうと思うのは病である」と言います。
さらには、「どうやって攻め込もうか」と考えることも病であり、相手の顔や構えを見て「勝てるだろうか?」と計算することも病であると続けます。
そうして最後に、「なにごとも、心の一すじに思い留まることを病と言うのだ」と言って、彼はその文章を結んでいるのです。
これは要するに、何事にも「執着」するなということです。
なぜなら、もしもどこかに「執着」すると、そこで足が止まって動けなくなってしまい、隙を突かれてしまうからです。
このような、「足が止まって動けない状態になること」を、武道では「居着く」と表現します。
たとえば、師範から「居着いているぞ!」なんて仕方で言われるわけですね。
なぜ「居着く」のかというと、私たちが何かに「執着」して、それを手放せなくなってしまうからです。
たとえば、「勝つことへの執着」があると、その「執着」は、「何がなんでも絶対に勝たねば…」という心身のこわばりを生んでしまいます。
また、「自分の優秀さを証明することへの執着」があると、自分の身の丈に合わない派手な技を使って、「華麗なフィニッシュ」を演出したくなってしまうかもしれません。
他にも、「先輩だからって偉そうにしやがって…。今に見てろよ」というのも「執着」であり、「後輩の前で失敗して恥をかきたくない!」というのも「執着」です。
これらは全て「自我」にその源を持っており、「自我」に奉仕し、「自我」を防御するためのものばかりです。
そのため、「自我」が前面に出ている武道家というのは、まだ二流ということになります。
実際、「相手に勝ってやろう」とか、「華麗に技を決めてチヤホヤされたい」とかいったことを考える人は、武道に限らず、どんな分野でも二流でしょう。
なぜなら、そうやって「自我」に囚われることで、当人は絶えず「居着いて」しまい、自由に行動することができなくなるからです。
逆に、もしも「自我」について、「それは虚構である」という理解に至ったならば、こういった「執着(柳生宗矩に言わせるなら病)」から抜け出すことができるようになります。
もう相手にマウントを取る必要はありませんし、勝利にこだわる必要もありません。
当人は、ただ「在るがままの状態」で勝負に臨むことができるでしょう。
そして、その時にこそ、当人は「居着き」から解放されて、最高のパフォーマンスを発揮することができるのです。
◎「戦う理由」が消失した時、武道家の「戦闘能力」は向上する
ですが、ここで一つのパラドクスが発生します。
それは、「自我」が消失したことによって、「戦う理由」がなくなってしまうということです。
そもそも、どうして人は争うのかと言うと、だいたいにおいてお互いの「自我」が衝突するからです。
「オレのほうが正しい!」
「あいつらの言うことは間違っている!」
このような想いに囚われるから、私たちは争いをやめられないのです。
ですが、「自我」を「虚構」であると悟っている人は、自分の「自我」が言うことを真に受けなくなります。
たとえ「自我」が「あいつらは間違っている」と言い出しても、「あー、またなんか言ってるなー」くらいにしか当人は思いません。
「自我」が発する声に自己同一化しないのです。
それゆえ、「他人に自分の正しさや強さを証明したい」という欲求から当人は自由でいることができます。
そしてだからこそ、「わざわざ他人と争う理由」もなくなってしまうわけなのです。
思考と感情が静まり、「自我」による支配からも自由になったことで、当人の「戦闘能力」は間違いなく上がっているはずです。
しかし、そうして向上させた「戦闘能力」を活用する理由がもうありません。
「戦う理由」はもうなくなっており、当人はただ淡々と生きていくようになるはずです。
一見すると、「ただの人の良いおじさん/おばさん」にしか見えず、普通の人の目には、とても一流の武道家とは思えないかもしれません。
ですが、そのようにして「戦う理由」を失った人こそが、実際には本当に「戦闘能力」の高い武道家なのです。
これが、「不動心」というものが内包しているパラドクスです。
◎「生」と「死」への「執着」から自由になった時、「不動心」は完成する
ですが、実はまだもう一歩だけ、「不動心」への道は残っています。
それは、真理の探求において「悟り」と言われているものです。
もしも探求の果てに「真理」を悟ると、当人は「『自我』だけでなく、『この世界』そのものが『虚構(フィクション)』だったのだ」と理解するようになります。
【最終回】「世界の実在性」が崩壊する時|「世界」という最後の束縛からの自由について
この理解が起こると、「人生というのは一種の映画のようなもので、生きても死んでも同じようなものだ」という風に当人は思うようになっていきます。
つまり、「生」と「死」の両方に対して「無執着」になっていくのです。
こうなると、「死を避けるために戦う」ということさえも、「戦う理由」として機能しなくなります。
ここまでくると、戦闘中にたとえ腕が一本切り飛ばされても、そのことで「居着く」ことなく戦い続けることができるかもしれません。
そういう意味では、「戦闘能力」は最高レベルまで向上していると言ってもいいでしょう。
ですが、やっぱり「戦う理由」がありません。
なぜなら、当人はもはや「自我」に「執着」していないだけでなく、「人生」にも「執着」していないからです。
ここにおいてまだ「戦う理由」があるとしたら、それは「誰か他人を守るため」以外にはないかもしれません。
つまり、ここに至って武道家は、「純粋に誰かを守るためだけにしか戦うことのない存在」になるわけです。
私が思う「不動心」というのは、このような境地に至った人の内的状態なのではないかと思います。
そこには思考も感情もなく、「自我」や「この世」に対する「執着」もありません。
それゆえに当人は「不動」であり、もし当人が動くことがあるとしたならば、それは「自分以外の誰かを守る時」だけでしょう。
◎終わりに
いかがでしたでしょうか?
今回は私なりに、「不動心」についていろいろと考えてみました。
とは言え、最初にも書きましたように、私が道場を破門になったのはもう10年近く前であり、その後、真理の探求を始めて以降は、対人稽古は一切していません。
ですから、今回の私の記事は完全に「個人的思弁」と言っていいものです。
道場で実地検証したわけではないので、本当のところはわかりません。
ただ、真理の探求が終わった今になってから振り返ってみて、「こういうことだったんじゃないかな?」と想像しているだけです。
しかしそれでも、武道を稽古している人や真理を探求している人にとっては、何かしら役に立つ部分もあるかもしれません。
実際に武道を稽古しながら真理を探求されている方は、ぜひ私の言ったことが当たっていたかどうかを検証して教えてほしいと思います。
ではでは。