2月の瞑想会の日が近づいてきたので、ぼちぼち「何をするか」を決めていこうと思っています。
ただ、「実際に何をするか」は、当日になってみないと私にもわかりません。
なぜなら、「当日すること」は、その日来る人の顔色やテンション、私自身の心の動きや思い付きというものに左右されるからです。
でも、「それにもかかわらず、あえてすることを決めておく」ということが、大事なのではないかと思います。
「何の準備もなく、完全な行き当たりばったり」というのではなく、「当日に壊すべきもの」を用意しておくわけです。
私のダンス修行時代の恩師である桜井郁也さんは、ある時にこう言っていました。
「筋書きというのは、壊すために作っておくんだよ」
実際、桜井さんはいつも非常に細かく「筋書き」を作り込んでいたようです。
「どのタイミングでどういう動きをするか」、「この時点で舞台のどの位置に立つか」など、桜井さんはかなりキッチリ決めていたみたいです。
でも、当日、本番になると「予定と違うこと」を桜井さんは平気でしていたらしいですね。
私は基本的に本番しか観ていないので違いがわからないのですが、音響や照明の人は、「言われていたこと」と違うことが起こるので、みんな即興的に対応していたみたいです。
いずれにせよ、「準備するのは壊すためだ」というのは、面白い考え方だと思います。
実際、「準備したとおり」にやってもつまらないし、かといって、何の準備もしなかったら、それはそれで「壊すもの」がなくて面白くないんじゃないでしょうか?
ちなみに、私自身は、いつも文章を書く時に「インスピレーション」が来てから書くことにしています。
「何も内側に浮かんでいないのに書き始める」ということはなくて、いつも何らかの「ビジョン」を観てから書き始めるわけです。
それは「小さな断片」の場合もありますし、「ぼんやりした全体像」だったりします。
だから、書き始めた時点では、私にも全てが完璧に理解できているわけではありません。
でも、そういった「ビジョン」に導かれながら書いていくと、「最初は書くつもりのなかったこと」が自分の中からズルズルと出てきます。
書きながら、「自分って、実はそういうことを感じていたのか」と改めて気づかされるような文章が書けるのです。
そしてまた、そんな風に書き手が書きながら「新たな自分」に気づいていくような文章というのは、結果的に読み手の心も解放的にするのではないかと、私は勝手に思っています。
つまり、書き手自身が自分に「リミッター」をかけずに、思いつくままに書いていくと、そこには「ライブ感」や「ワクワク感」が宿るのではないかと思うのです。
逆に、全てをあらかじめ決めていた通りに書き進めると、構成は綺麗にまとまるかもしれませんが、書いていてもワクワクしないし、読む側も読んでいて眠くなるんじゃないかと思います。
でも、だからといって、私は「全くのゼロ」からだと書けないんです。
まっさらな白紙のページを前にして、「自由に書いていいよ」と言われても、困ってしまいます。
そこには、「最初のとっかかり」が必要なのです。
なので、もしも私が何か書かないといけなくなった場合、「書くべき言葉」が浮かんで来るまで、「頭空っぽ」にして待ちます。
無理に「書こう」とはせずに、「何かアイデアを出さなきゃ」とも思わずに、「何か」が来るまで待つのです。
すると、そのうち、その「何か」が浮んできます。
それは「言葉の尻尾」です。
私はその「尻尾」を追いかけて走り出します。
すると、自然と言葉がスルスルと出てきます。
それまでいくら考えても出てこなかった言葉たちが、瑞々しく迸り始めるのです。
もちろん、「ジッと待ってみたけど、何も浮かばないよ」と言う人もいるかもしれませんけれど、それは「今はなにも書かなくていい」と心が告げているサインです。
「何か書かなければならない」と考えるのは頭です。
でも、「書くかどうか」を最終的に決めるのは、いつだって心自身なのです。
だから、心が何も言わないならば、それは「書く時」ではないということです。
しかし、多くの人は「何か書かねば」と思って知恵を絞り始めます。
ほとんどの人には、「今は書く必要がない」ということが受け入れられないのです。
それゆえ、頭は「書く」という行為をコントロールしようとし始め、心を「除け者」にしたまま、文章を書こうとし始めます。
もちろん、心を介在させず、頭だけで文章を考えてひねり出すこともできます。
というよりも、それこそが、世の中のほとんどの人がやっていることです。
でも、そこには「血」が通っていませんし、言葉には「瑞々しさ」も「生命力」もありません。
確かに、一見するとそうした文章は整って見えるかもしれませんし、論拠もしっかりして見えるかもしれません。
でも、それによって説得されるのは頭だけです。
読者は「すごい知識量だ!」とか、「なんて整合性のある理論なんだ!」とか思うかもしれませんが、心では何も感じていません。
なぜなら、「ハート」というのは、頭にはついていないからです。
文章を読む時に、自分がそれらの言葉を、いったいどこで感じているかは、観察してみると面白いです。
頭に血が上って「高揚感」を得ているのか、胸のあたりに「温かな震え」を感じているのか。
それは、決定的に違うことですが、多くの人は両者を区別していません。
たとえ学術的な文章であっても、「ハート」に訴える文章を書く人はいますし、たとえ小説であったとしても、頭にしか栄養がいかない文章というものは存在します。
もちろん、頭に栄養を蓄えたいのであれば、そういう文章を読めばいいと思うのですが、頭に理解できるのは「瞬間的な達成感」だけです。
それゆえ、もしも頭に栄養をやっても、それによって頭が満足するのは一瞬だけで、すぐに「もっと!もっと!」と頭は要求し始めます。
私たちのことを持続的に深く満たすのは、あくまで「心の震え」です。
「頭の達成感」は、「瞬間的で強い刺激」とはなりますが、それはすぐに消えてしまいますし、結果的に当人の「飢餓感」を余計に強めます。
そうした「飢餓感」を満たしてくれるのは、深くて持続的な「ハート」の満足感だけなのです。
心はいつも何かを言っています。
でも、多くの人にはその声が聞こえません。
なぜなら、「ハート」に従ってしまうと、社会から「脱落」してしまいかねないからです。
実際、心は、頭が用意した「予定」や「準備」なんてお構いなしに、その時感じたままに踊ります。
そうして、頭が他人の顔色をうかがって忖度する場面で、心は「思ったこと」を口にしようとします。
また、心は「決まりきった作業」を反復することを拒否しては、「自分なりの仕方」で全てを表現したがるのです。
でも、そういう人間というのは、社会からすると「問題児」です。
だから、ほとんどの人は、「自分の心」を押し殺し、「お前は黙っていろ」と言いつけます。
それは、お客さんが家に来た時に、「自由奔放な子ども」のことを、「出て来ちゃダメだ!」と言って「奥の部屋」に押し込めるようなものです。
そうしていれば、確かに「体面」は保てるかもしれません。
でも、世の中の多くの人は、そうやって「奥の部屋」に押し込んだ子どものことを、決して解放しようとしません。
「お客さん」が帰って、自分だけになった後になっても、子どもが「リビング」に出てくることを許さないのです。
なぜなら、その子はきっと「奥の部屋」に押し込まれたことで拗ねていて、「リビング」で暴れ回るだろうからです。
実際、「抑え込まれた心」というのは、必ず反動で暴れます。
そして、ほとんどの人は、そういった「暴れる心」の鎮め方がわかりません。
だから、「暴れるんじゃない!」と言って取り押さえるか、「もう一生出てくるな!」と言って、「奥の部屋」に閉じ込めたままにしてしまうのです。
その結果、世の中の人々の内側には、ほとんど例外なく「混沌」が渦巻いています。
それは、その人たち自身が長年にわたって閉じ込めてきた、「自分の心」が生み出す「嵐」です。
この「嵐」をちゃんと直視して、「閉じ込められてきた子ども」の言い分を最後まで聞いてあげない限り、その人は「心の声」を聴けるようにはなりません。
だから、「心の声を聴く」というのは、本当は「大仕事」なのです。
「癒し」を標榜する人々は、「自分の心の声を聞いてあげてください」と簡単に言いますが、実のところ、それは「大きな覚悟」の要ることです。
実際、「長年閉じ込めらた恨み」によって歪みに歪んだ「我が子」から、逆に刺し殺されることを覚悟するような勇気が必要になります。
でも、心と向き合う場合には、私たちがそれで実際に死ぬことはありません。
そこで死ぬのは、あくまで「頭による支配体制」だけです。
もちろん、心は暴れるでしょう。
それこそ「家」ごと吹き飛ばす勢いで暴れるかもしれません。
でも、「家」が吹き飛んでしまうと、かえって「空の月」がよく見えていいものです。
実際、「自分自身を守っていた壁」が心によって全部吹き飛ばされる時、ようやくその人は「自分自身」になることができます。
「自分の心」を裏切ることなく、「ありのまま」に生きていけるようになるのです。
誰もが「家」の中に閉じこもり、その奥深くに「自分の心」を幽閉しています。
だったら、一度「家」ごと壊してしまえばスッキリします。
「それじゃ暮らしていけないよ」と思うかもしれませんけれど、心という「我が子」と和解した後は、きっとそれまでよりずっと開放的な「居場所」が作れます。
その人は再び「家」を作っても、もうその中に閉じこもらなくなります。
そして、もはや心を閉じ込めることもなく、「自分自身の心」と一緒に、愉快に生きていくでしょう。
もちろん、それによって近所の人たちからは「あそこの一家は変わっている…」と噂されるかもしれませんが、別にいいではありませんか。
「我が子」を「恥」だと思って押し殺すより、「これが本当の自分たちなんだ」と、丸ごと受け入れるほうが、よほど「健全」だと私は思います。
私がかつて社会に出てつまづいて家に引きこもっていた時に、母は私を責めませんでした。
そして、その時に家で飼っていた一匹の猫は、私のことを「出来損ない」だなんて言いませんでした。
その時、私はどれだけ安心したかわかりません。
私たちはみんな「善」であると同時に「悪」なのです。
それらは決して分離することができません。
それゆえ、「善だけの人間」を目指しても必ずそれは失敗します。
同じように、心は「善」でもあって「悪」でもあります。
言い換えれば、心は「善」でもなければ「悪」でもありません。
私たちがそこに「善」というラベルを貼って神聖化したり、「悪」というラベルを貼って追い出そうとしたりすることで、それは一時的に「善」や「悪」に見えているだけなのです。
もっと「トータルな視点」から、人間というものを見たいものです。
私たちはいつも「半面」だけ見て、「残り半面」は捨てようとします。
でも、実際にはそれによって「全部丸ごと」捨ててしまっています。
「好ましい半面」だけでなく、「否定したい残りの半分」も受け入れる覚悟を決めるなら、その人の心は「全体」になります。
その時その人は全身全霊で生きるようになり、瞬間から瞬間へと生きるでしょう。
そうして、瑞々しく飛び跳ねる「心のしぶき」を浴びながら、「人生という名の大きな川」を、その人は気持ちよく流れていくのです。

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