この二、三日で、認識に大きな変化があったので、過去に書いた記事に追記をおこないました。
この記事です。
どうして人を殺してはいけないのか?|息一つ乱さず人を殺す「鬼」の存在の意味について
この記事を書いた時点では、私は「人間というのは『天』という『大いなる存在』によって生かされているだけに過ぎない」という、ある種の運命論を展開していました。
「この宇宙には『動かすことのできない法則』が在り、そこから外れることはできない」と、その時の私は考えていたのです。
でも、それなら、「死ぬ定め」にある人を見殺しにすることも、肯定すべきなのでしょうか?
もちろん、「死にたくない」と言って無理に延命治療を続けることは、「命の理」に反することかもしれません。
でも、「死なせたくない」という心情の全てが、「執着」だとも思いません。
実際、私たちはただ「生きていてほしい」という願いから、あえて「運命」にさえ逆らうことがあります。
それはひょっとすると、「神」や「天」の思惑に反することなのかもしれませんし、結果的に「天罰」が下って「地獄」に落ちるかもしれません。
でも、そんなのおかしいじゃないですか?
もしも私たちが自分の意志で「運命」に抗うことができるなら、その程度の「運命」しか与えられない「神」や「天」は、そもそも「大したことがない」ということです。
たとえば、もしも私たちが言うとおりにしていたら「天国」に行かせてもらえて、逆らったら「地獄」に行くのだとしたら、その時、私たちには「神」や「天」の振舞をコントロールする能力があることになってしまいます。
会社の上司じゃあるまいし、「言うとおりにしていたら昇給してもらえて、逆らったら減給になる」みたいな単純なことを、「神」や「天」がするわけありません。
「神」も「天」も、本当はもっと「大きい」のです。
それは、「人間」という「自由意志を持つ存在」を創り出しました。
聖書では、アダムとイブが言いつけを破って知恵の実を食べたことで楽園を追放されていますが、「神」がそんな「器の小さいこと」をするとは、私には思えません。
「神」というのはもっとでっかいんです。
だから、「神」も「天」も、「従うか逆らうか」なんていう次元で、人間のことを見てはいないはずです。
もしも「神」や「天」がそういう次元で人間のことを見ているだけなら、私たちにはそれらを理解することができてしまいます。
でも、人間の知性で理解できるほど小さいものを、「神」とか「天」とか呼ぶのはおかしいはずです。
だから、話はむしろ逆なのです。
私たちはいつも問われています。
「従うか逆らうか」という次元ではなく、「いかなる理解も及ばない時に、それでも自分で選択できるか」を、私たちは「神」や「天」によって問われているのです。
「従うべきルール」がわかりやすく与えられているのなら、話は簡単です。
その人は「天国に行く仕方」もわかっているし、「地獄を避ける方法」も学習できます。
でも、私たちには、本当のところ「神」や「天」がどういう基準で判定を下しているのかは、不明です。
誰にも「神」や「天」の真意はわかりません。
そして、だからこそ、私たち自身は「自由」なのです。
そこでは、「全ての選択」が可能です。
何をするのも「自由」です。
その時、私たちの手元には「ルールブック」がありません。
一切は「未知」であり「不確定」です。
そして、それにもかかわらず、「自分の選択」をするからこそ、その人は「神」や「天」から「自立」することができます。
なにものにも寄りかかることなく、「『神』や『天』の代弁者」として語ることもなく、あくまでも「一人の人間」として、「自分の足」で立てるのです。
でも、それは結果的に「神」や「天」の大きさを証明することにつながります。
そのような「自分の足で立てる存在」をこの世に生み出した「神」と「天」の偉大さを、当人が間接的に証明するのです。
それは、「真に偉大な師」が「弟子を自立させる師」であることと対応しています。
実際、「本当の意味で偉大な師」は、決して弟子を「従うか逆らうか」というような枠組みで評価したりしません。
彼はただ、「自分の足で立て」と言うだけです。
そして、逆説的なことですが、弟子が本当に「師」の元を離れ、「自分の足」で立つことができた時、そのような弟子を育てた「師」の偉大さは、間接的に証明されます。
「何にも寄りかからずに立てるほどに成熟した人間を育てられた」という事実が、「師」を「真に偉大な存在」にするのです。
このように、「自立」する当人は、「自身の自立」という事実によって、いつも「自分より大きな存在」の偉大さを証言する「証人」になります。
だから、私たちはみんな「証人」なのです。
「神」や「天」を本当の意味で偉大たらしめることができるかは、私たち自身の選択にかかっています。
「神」や「天」という概念を持ち出すことなく、あくまでも「人間自身の仕事」として、「自分の道」を選択すること。
そこにこそ、「真の自立」は存するのであり、そこにおいてこそ、私たちの「証言」は木霊するのです。
それゆえ、もしも「死ぬ定め」にある人であったとしても、私の心が「生きてほしい」と望むなら、私はその「定め」に抗うと思います。
その結果、私が苦しむことになっても構いませんし、「天」から切り離されても構いません。
私は、「自分の心」に従います。
「人間の仕事」というのは、人間自身が背負うからこそ意味があります。
それらの「仕事」を、「神の思し召し」や「天命」という形で割り切って手離してしまう時、私たちは「神」や「天」に盲従するだけの「ロボット」になってしまいます。
私たち人間が、「従うだけのロボット」ではないと示すためには、「責任を引き受ける力」が必要です。
その「力」は、「答えのない状態」にどれだけ耐えられるかによって決まります。
「神」も「天」も、全く道を示してくれない時、それでも自分自身で選択できるか?
そこにこそ、人間の「自由」と「可能性」は在ると、今の私は思っています。

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