私はよく「深い呼吸ができるかどうかが大事だ」と言います。
また、「深く安定した呼吸ができているなら、その人は何も『間違ったこと』はしていない」とも言っています。
しかし、この言葉を聞いて、疑問を持った人はいないでしょうか?
それはこんな疑問です。
「もし息一つ乱さず落ち着いて人を殺す殺人鬼がいた時、その殺人鬼のやっていることは『間違ったこと』ではないのか?」
たぶん、本当の意味で「誠実」な人は、この問いに自力で到達するでしょう。
なので、今回の記事では、この問いに絡めとられてしまって懊悩している人だけに向けて書きます。
間違っても、「殺人鬼」に家族や友人を殺されてしまった人は読まないほうがいいです。
なぜなら、私はこのような殺人を究極的には肯定するからです。
この世には、定期的に「鬼」が現れます。
「鬼」というのは、息一つ乱すことなく人々を殺して回る「怪物的な人間」のことです。
たとえば、過去には「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年が、神戸で人々を殺して回ったことがあります。
彼だけではありません。
時として、この世には「人を殺すべくして殺す人間」が定期的に現れるのです。
おそらく、彼らは人を殺す時に呼吸が浅くなっていなかったと思います。
なぜなら、彼らの中には「理想」と「現実」のギャップが存在しないからです。
彼らは「殺してはならない」という声を、内側に持っていません。
それゆえ、何の葛藤もなく人を殺せるのです。
しかし、「普通の人」にはこれができません。
ほとんどの人は、人を殺そうとすると、強い心理的な抵抗を感じるものですし、万が一間違って人を殺してしまいでもしたら、その時の感触が忘れられなくて、のちのちまで精神に深い傷を負うでしょう。
しかし、そういった「良心の呵責」を感じることなく人を殺せる人間というものが、定期的に生まれてきます。
家庭環境がどうだとか、育て方がどうだとか、いろいろと議論されますが、究極的には「それがその人の生まれ持った個性だった」としか言いようがないと私は思います。
「個性」と言うと、「他人とは違うその人だけの素晴らしさ」と思われがちですが、「葛藤を抱えることなく人を殺せる」というのも、「個性」です。
それは徹底的に「反社会的な個性」ですが、紛れもなく当人の「素質」なのです。
なぜそんな人間が生まれてくるのかは、私にもわかりません。
究極的には、天災と同じで理由などないのでしょう。
ただ、そういった人間が現れることの「効果」は、はっきりしていると思います。
それは、「人々の覚醒を促すこと」です。
実際、こういった「鬼」が世の中に現れると、少なくはない人たちが「死」について意識し始めます。
「自分もいつかは死ぬ存在なのだ」ということを思い出し、「生きていること」を実感するのです。
「鬼」が現れることで社会は混乱し、人々の意識はその混乱のおかげで「覚醒」します。
「平和」の中で眠り込んでいた人々の意識は、無理やり叩き起こされた時みたいに、急に「自覚的」になるのです。
このことは、「戦争が始まると自殺が減る」ということとも関連しています。
実際、戦争が始まると、人々は活き活きし始めます。
「死」はすぐそこに在り、「生」は輝きを取り戻します。
「切迫した死」の存在が、人々の意識を「覚醒」させ、「生の充実感」を思い出させてくれるのです。
それゆえ、もしも「なぜ定期的にこの世には『鬼』が送り込まれてくるのか?」と問うならば、「人々の意識を覚醒させるため」というのが、一つの答えになるでしょう。
でも、それも結局は、人間的な地平で考えた「作為的な答え」に過ぎません。
「本当の理由」は不明です。
ただ「天」は、「慈悲」に基づいて人々を「覚醒」に導く人間だけでなく、「死」を与えることで人々を「覚醒」に導く人間も、この世に送り込んできます。
それについて、私たちには「人間的な善悪の基準」で理解することはできません。
なぜなら、「天」というものがそもそも「善悪の彼岸」に存在するものだからです。
どちらの「導き手」も、「深く安定した呼吸」に基づいて人々を「覚醒」させますが、その「手段」自体は正反対です。
一方は、人に「より深く生きること」を教えることで「覚醒」に導き、もう一方は、「命を奪うこと」によって人々に「生の実感」を思い出させます。
そういう意味で、どちらも「天に与えられた役割」をただこなしているだけに過ぎません。
実際、どちらの「導き手」も、「なぜか自分にはこうとしか在れない」と感じながら行為しています。
というのも、両者は元からそのように創られてしまっているからです。
それゆえ、彼らが「個性」を発現させればさせるほど、当人の意思とは無関係に、行為が起こり始めます。
ゴータマ・ブッダのような人は「慈悲」ゆえに人を導き続け、「鬼」たちは自身の「内的必然性」に衝き動かされて、自発的に人を殺します。
しかし、そのように「自発的で在れ」というのも、私が常々言っていることです。
つまり、私はこういった「鬼」たちのことを、間接的に肯定してしまっているのです。
「殺したい」という「内発的な動機」が在り、実際に殺す際に「深い呼吸」が伴っているなら、その人が人を殺すのは、「天の思惑」に適っていると私は見ます。
もしもそういう人が私を殺す場合には、それが「天の望み」なのだと考えるしかありません。
だからと言って、私は別に「どんどん人を殺すべきだ」というようなことを言いたいわけではありません。
私が言いたいことは、「人を殺すべくして創られてしまっている人間というのは、必ず定期的に生まれてくる」ということと、「そういう人の行為を否定できる基準は、究極的には存在しない」ということです。
もちろん、社会学者や道徳家たちは、いくらでも論拠を持ってきて、「鬼」の行為を否定するでしょう。
でも、「なんで人を殺してはいけないのか?」という問いには、実は答えがありません。
刑法で殺人が禁止されているのは、それを禁止しておかないと、共同体が保てないからに過ぎないのです。
「善悪」というものを「共同体を維持するためのルール」という文脈でしか考えていない人たちは、「人を殺すことは悪いことだ」と簡単に言いますが、そういった人たちの議論は、「たとえ死刑になってもいいから人を殺したい」と言う人間が現れた時に、全くの無力です。
自分の死刑を恐れておらず、人を殺すことでむしろ呼吸が深まる「鬼」たちは、主観的には「善」を為しています。
彼らにとって「殺人」は、「自身の生をより輝かせ、呼吸を深めてくれる」という意味で、紛れもなく「善なる行為」なのです。
そもそも「善」という言葉は、本来「悪ではない」という意味しか持っていません。
それは、「悪」という言葉が「善ではない」という意味しか持っていないことと対応しています。
世の道徳家たちは「するべきこと」のリストをずらずらと並べ立てれば、それで「善」を定義できると考えていますが、それは無理です
なぜなら、「殺人をすることが自分のためになる」と心底信じている人にとって、殺人というのは「善」だからです。
実際、「鬼」は「よかれ」と思って人を殺します。
「悪いことをしよう」と思ってそれをする人はいません。
殺人であろうと強盗であろうと、人は必ず、自分から見て「よい」と思ったことをします。
だからこそ、「鬼」にとっては、殺人は「善」と映ります。
もちろん、私たちにそれを理解することはできませんが、それは私たちが「たまたま」そういうことを理解できないような仕方でもって、「天」によって創られたからに過ぎません。
そのことは、たぶん「幸運」なことだったのでしょう。
なぜなら、もしも「鬼」として創られてしまっていたら、その人にとっての「天命」は、「人々を殺して回ること」になってしまうからです。
「天命」というと、何か「人々に貢献する素晴らしいもの」であるかように思い込んでいる人もいるでしょうけれど、「天」はこの世にゴータマ・ブッダを送り込みつつ、「鬼」も定期的に送り込んできます。
だから、「天命に従って人を殺す」ということも、十分あり得ることなのです。
私はいったいあなたに何を伝えたいのでしょうか?
ひょっとしたら、あなたは「鬼」として生まれてきていて、その内側に「人を殺すべき必然性」を抱えているのかもしれません。
その時、私にはあなたを止めるロジックがありません。
むしろ、私が普段口にしている言葉の全ては、あなたが犯す「殺人」を肯定してしまいます。
そうしてあなたは、殺すべくして人を殺し、世の中の多くの人を「覚醒」させるかもしれません。
それがあなたに与えられた役割であれば、私には、それを止めることができません。
ただし、もしもあなたが、私が書いたこの文章を読んだことを理由にして殺人を決意したのであるならば、あなたは「本物」ではありません。
あなたは「真の鬼」ではなくて、単に鬱憤を晴らすための口実を探していただけの「偽物」です。
「本物の鬼」であれば、たとえ私が何を言おうと、そんなことは意に介さずに殺すでしょう。
だからこそ、私は「『そういう人間』を止めることはできない」と言うのです。
せいぜい、国家権力を動員して、身体を無理やり拘束することができるだけです。
逆に、もしも私の言葉に寄りかかるなら、あなたは「偽物」です。
もしもそうであるならば、「偽物」であることを自覚して、「本当の天命」を探してください。
あなたは「人を殺すため」に創られていません。
ただ、一時的に心が追い詰められて、誰かに八つ当たりしたくなっているだけのことです。
だとしたら、まず「自分自身」と向き合ってください。
自分の中に在る「苦しみ」を見つめ、それを理解するように努めてください。
もしもあなたが「自分自身」から逃げなければ、あなたの表層を覆っていた「偽物」は剥がれ落ち、奥から「本物」が出てきます。
それはきっと「鬼」ではなくて、もっと別なものであることでしょう。
私は今回、正直に自分の思っていることを話しました。
でも、「鬼」たちによって家族や友人を殺されてしまった人からすると、私の言っていることは「残酷な暴力」以外の何物でもないと思います。
今はただ、「鬼」によって殺される「供物」として選ばれてしまった人々の冥福を祈り、この記事を終えたいと思います。
【追記2026.2/4】
この記事を書いた時点では、「たとえ『鬼』に自分が殺されることになっても仕方がない」と思っていましたが、その後、認識に変化がありました。
今は、「もし『鬼』が目の前で誰かを殺そうとしていたら、必死で止める」と思います。
それが「天の意思」に逆らうことであったとしても、私は別に構いません。
「天」に従って見殺しにするより、「自分の心」に従って抵抗します。
なぜなら、私は「天の言いなりになって従うだけのロボット」ではないからです。
もちろん、それでも「鬼」は生まれてくるでしょう。
それを止めることはできません。
なぜなら、それが「創造」だけでなく「破壊」も司る「天の仕事」であるからです。
しかし、そうやって生まれてきた「鬼」のことを止めるのは、あくまでも「人間自身の仕事」です。
「神」や「天」に寄りかかることなく、「人間自身」が自分で選択しないなら、私たちは「生きている」とは言えないのではないかと思います。
それが、今の私の考えです。

コメント
「懊悩」が読めませんでした。
オーノー!
振り仮名を振っておきました。