当ブログの文章と筆者の著作物は全て著作権フリーですので、どうぞご自由にお使いください。

【「変な読者」の方たちへ】「魂の重み」が生み出す万有引力

ついさっき、グーグルのアクセス解析を見ていたのですが、この一週間で日本国内のアクセスユーザー数が70で、そのうちの新規ユーザー数が34でした。

ということは、半分くらいは「ご新規さん」ということになります。

ようこそ「湯浅ワールド」へ。

ちょっと「変なところ」ですけれど、どうぞゆっくりしていってください。

それはそれとして、面白いと思ったのは、そうして訪れた人のうち7割以上が「直帰」せずに、画面をスクロールしたりどこかをクリックしたりしていたことです。

この7割の数字を「エンゲージメント率」というのですけれど、一般的なブログでは、エンゲージメント率は4~5割もあれば「良いほう」らしいです。

となると、7割はもはや「異常値」です。

ほとんどの人が何かしらの「アクション」をしているのです。

また、この日本の70人が直近の一週間で私のブログにアクセスしていた累計時間の平均値が26分でした。

つまり、70人×26分で、1820分もの時間を、わずか一週間のうちに、私のブログは日本の人々から吸い取ったことになります。

しかも、この70人のうちの半分は「ご新規さん」なのです。

その中には、「週の途中から見始めた」とか、「一目だけ見てすぐ帰った」とかいう人も一定数いたはずです。

にもかかわらず、平均値が26分になっているということは、おそらくこの一週間で1時間以上読んでいる人が何人か混ざっていて、そういった人たちが平均値を押し上げていると推察されます。

ここまで来ると、もはや「なんとなくブログを読みに来ている」という意識レベルではないです。

一週間に1時間以上、私のブログに入り浸っている人、あなたはちょっと「変」ですよ。

普通はそんなに熱心に人のブログを読んだりしないものです。

一週間に26分でも十分多いと思いますが、1時間もブログを読んでいるとしたら、それは「普通」じゃありません。

と言っておいて、私自身も過去に同じことをしていました。

私はブログを読む時も本を読む時も、「気に入った書き手」を見つけると、骨までしゃぶるように片っ端から読んでいました。

その作家の本を、手に入るものは全部買い集めて、ひとつ残らず読破していたのです。

それゆえ、私の読書経験はかなり狭い範囲に偏っています。

つまり私は、とにかく狭く深く読む人間だったのです。

そもそも私は、基本的に普段「他人の書いた文章」をほぼ読みません。

なぜなら、私はいつも他人の文章に触れる時に、「これは自分自身を捧げてまで読むに値する言葉か?」という風に自分に問いかけることにしており、この「ハードル」を越える文章に滅多に出会うことができないからです。

しかし、もしも「ハードル」を越えるような言葉に出会った場合、私はとことんまでその書き手の文章を読み続けます。

それこそ、「その書き手の思考回路」を丸ごと自分の中に取り込もうとするレベルで読み込みます。

そして、実はそういう読み方をするのが「普通」だと、割と最近まで思っていました。

私は昔から「言葉というのはその人の魂そのものだ」と思っていましたし、「それを読むということは、相応の覚悟の要ることだ」と認識していたのですが、世間のほとんどの人は、そんな風に考えていなかったんですね。知りませんでした。

だからこそ、私は自分のブログで起こっていることの「異常さ」にも、最近まで気づいていませんでした。

実際、普通のブログというのは、「同じ人に何度も来てもらう」ということは考えていなくて、何百人~何千人の「一見さん」を集客することで成り立っているものでしょう。

ほとんどの人は、そういう「普通のブログ」に来ては、「答え」を得て満足して帰っていき、そのまま二度と訪れないものです。

きっと一週間後にはブログの名前さえ忘れていると思います。

でも、私のブログの読者の方たちは、何度も繰り返し訪れており、おそらく「答え」を受け取るというよりかは、「問い」を深めていっているのではないでしょうか?

実際、もしも「自分の疑問をインスタントに解消するため」に記事を読んでいるのであれば、一度読んで、それで「おしまい」にするはずです。

でも、そうなっていないということは、「何か」が当人の中で未解決なまま持続しているということでしょう。

そして私は「答え」を与えるというよりは、基本的にいつも読者のことを読者自身の中へと投げ返すようなことをしています。

だから、読めば読むほど、読者は自分で考えるしかなくなります。

「いったい自分は何者なのか?」
「自分の心と身体はいったい何を求めているのか?」

読者の中には、そんな風に日々自問自答している人も多いのではないかと想像しています。

たぶん、そんな「異常な読み方」をする読者が集まっているのは、書き手である私自身が「異常な読み方」をする人間だったからです。

先ほども書いたように、私は「気に入った作家」の文章は片っ端から読みます。

私は「言葉は魂だ」と信じていますし、「軽い言葉」を語るような「魂が安い人」の言葉には目もくれません。

だからこそ、同じように「魂の重さ」を理解できる読み手がここには集まっており、日々、私の記事を読みながら、「自分の魂の重さ」を量っているのではないかと思います。

結局、書き手と読み手は鏡のようなものなのでしょう。

書き手が体現しているものを理解できる人だけが、読者になります。

そこには「動かしがたい対応関係」があり、両者は鏡に映った「在り得たかもしれない自分自身」なのです。


ということで、お互い「変わり者」同士、今後も同じ方向を向いている限り、一緒に歩いて行けると嬉しいです。

もちろん、人生の岐路に立った時、「歩くスピード」や「進む方向」が変わることは誰でもあります。

そういう際に、私と「歩幅」や「方向性」が合致しなくなったなら、その人は自然とこのブログを離れていくでしょう。

でも、別にそれで何の問題もありません。

なぜなら、それはその人にとって必要なことだからです。

誰もが「自分の道」を「自分の足」で歩いています。

だからこそ、みんな「孤独」なのです。

そして、それゆえに、たまたま今この瞬間にお互いの「歩幅」と「進んでいる方向」が合致している奇跡を、私は喜びたいのです。

全ては「一期一会」です。

私たちは宇宙に浮かぶ星々のようなものです。

それぞれの星には「固有の軌道」があります。

でも、ある瞬間だけ、それらが奇跡的に「同期」することがあります。

その瞬間、「贈り物」が取り交わされて、お互いの「魂」を温め合います。

そして、やがてまた「それぞれの軌道」に戻っていき、お互いの距離は離れていきます。

それは自然なことであり、何も「間違ったこと」は起こっていません。

だから、ずっと一緒にいることだけが大事なわけではないのです。

一瞬だけ袖が触れ合う「一期一会」のすれ違いの中で受け渡される「贈り物」を、また別な誰かに受け渡していくことこそが大事なのです。

そこにこそ、「その人の魂の重さ」が乗ります。

星々は引き合い、すれ違っては離れていきます。

その際の引き合う力の源こそが、それぞれの人の「魂の重み」です。

事実、「魂が軽い人」には引力がありません。

「万有引力」を発生させられるのは、「魂」という質量を持つ人だけです。

だから、私たちの出会いは必然だったのでしょうし、やがて別れが来るとしても、それもまた必然であるということです。

出会ってくれて、ありがとうございます。

あなたが私から何を受け取ったのであれ、あなたはそれを受け取ってくれたのです。

あなたの中に「種」は宿り、それはいつか芽を吹いて育っていくでしょう。

どうか、そうして育った大樹に実った「果実」を、いつか誰かに与えてください。

そうすれば、私たちが出会ったことにも、きっと「意味」があったことになるでしょうから。

コメント