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「苦しみ」を愛するための道

自伝の入稿も済んだのですが、改めて読み返していて、我ながら「よくもまぁ、これだけ苦しみ抜いたものだ」と思いました。

もちろん、「苦しみっぱなし」というわけではないのですが、落ちる時にはとことん落ちて、過去の私はひたすら苦悩していました。

でも、今はもうほとんど「苦しみ」が内側に兆すことはなくなりました。

それはたぶん、何かを握りしめ始めた段階ですぐに手放すようになったからでしょう。

そもそも、多くの人が深く苦悩するのは、「過去の苦しみ」に決着がつかないまま、それがずっと持ち越されているからです。

その根っこは、おそらく幼少期に在るでしょう。

そして、それは当人の内側でどんどん大きく育っていきます。

それゆえ、この「苦しみの根」は、青年期になって徐々に微弱な「生きづらさ」として感知され始め、社会に出てからは「不適応」という仕方で発症することがあります。

そこで当人は「もう死んでしまいたい!」というくらいの強い苦悩を経験します。

それは、幼い頃に心の奥に根を張って、年月をかけて育った「苦しみの大樹」です。

それゆえ、これを根っこから引き抜こうと思うと、かなりの労力が必要になります。

そもそも、多くの場合、人は「自分の苦しみの根源」が全然自覚できていなかったりします。

「苦しさ」そのものは自覚できるのですが、「なぜ苦しいのか」がわからないのです。

そういう場合、ほとんどの人は「外側の環境」のせいで苦しみが生じるのだと考えていますが、実際は違います。

「苦しみの真の原因」は必ず内側に在ります。

「外側の環境」はあくまでも「きっかけ」に過ぎません。

たとえば、ブラック企業で働いて疲れ果て、自殺を考えるようになっている人は、確かに「外側の環境」によって「苦しみ」を助長されています。

でも、当人には「そんな会社をさっさと辞める自由」もあるはずです。

にもかかわらず、しばしば人は辞めることができずに会社にしがみついてしまい、自分で自分を束縛します。

そこには、「ここで辞めたら『負けた』ことになってしまう」という想念があるかもしれませんし、「もしこんな程度で『負けて』いたら、これから先、生き残っていけなくなる」と思っているかもしれません。

でも、なんで「負けたら」ダメなんでしょうか?

いったい「何」を守っているのでしょう?

これを当人が自分で理解しない限り、その人は決して「自由」になれないと思います。


ともあれ、人はいつも「何か」にしがみつきます。

「これを失ったら自分は終わりだ」と思って、その「何か」を握りしめることによって自分自身を束縛するのです。

ちなみに、過去の私は、学生時代に学校の勉強にしがみついたことがありました。

中学時代の私は学年トップを取るほどまで勉強に労力を費やしていたのですが、別に勉強が好きだったわけではありませんでした。

当時の私は、共働きで家にいなかった両親からほとんど相手にされず、発達障害の特性から学校でも友達ができなかったため、自分のことを「出来損ないの欠陥品なのではないか?」といつも疑っていました。

そして、「もしも自分が『欠陥品』だったとしたら、もう誰にも愛してもらえなくなる」と、かつての私は思ったのです。

「親の愛」を十分に受け取れなかった私は、「愛してもらえなくなる」ということを強く恐れました。

「『愛』がなかったら、自分は立ち行かなくなってしまう」と、その時の私は感じていたのです。

とはいえ、当時の私は、もちろんそんなことまで自覚してはいませんでした。

私が主観的に感じていたのは、「漠然とした不安感」と「寄る辺なさ」だけです。

そして、私はその「理由のわからない不安と寂しさ」を埋めるために、勉強をし続けていたのです。

学校でいい成績を取ると、親も教師も誉めてくれました。

たとえ発達障害の影響でクラスメイトの話している内容がうまく理解できなくても、成績さえよければ「仲間外れ」にされずに済みました。

だからこそ、私は死に物狂いで勉強にしがみついたのです。

もう私は勉強を捨てることができませんでした。

なぜなら、「勉強を捨てること」は私にとって「敗北」であり、それは同時に「愛の喪失」を意味していたからです。

そして、ここから「苦しみ」が生まれてくることになります。

私は本当は楽しくもなんともないのに、テストで高いスコアを取るためだけに、日夜勉強し続けました。

でも、自分では「なんで勉強しているのか」がわかりません。

わかるのは、「勉強をやめたら破滅する」という不吉な予感によって、自分が衝き動かされているということだけです。

でも、本当は私はもっとのんびりゲームをしたり漫画を読んだりしたかったのです。

少なくとも、私の心は勉強なんて求めていませんでした。

しかし、私は「ことの成り行き」として進学校に進んでしまい、親も教師も「この子は勉強ができて当たり前」という前提で、私のことを見るようになっていました。

私はもう「レール」から降りることができなくなってしまっていました。

降りようと思っても、怖くて降りられないのです。

これが「しがみつく」ということです。

結局、ある時に私の心身がギブアップしました。

どんなに意志して「勉強しよう」と思っても、全くエネルギーが出てこなくなってしまったのです。

私は燃え尽きたように無気力になり、そのまま学校に行かなくなって引きこもりました。

まぁ、そこからなんやかんやあって回復したのですが、詳しくはもうすぐ発売する自伝を読んでください。

ともあれ、私たちを束縛するのは、いつだって私たち自身です。

そして、その「束縛の根っこ」は、基本的に「幼少期の根源的な欲求」と関連しています。

それは往々にして、「ありのままに愛してほしかった」「ただ自分らしく在りたかった」というようなものであることがほとんどです。

こういった「根源的な欲求」が何らかの形で阻害されたりおびやかされたりすることで、幼少期の当人は、自己防衛するために「何か」を握りしめ始めます。

それは、「これを手放したら自分を保てない」と思うような「何か」です。

そして、この「握りしめ」は、幼少期には全く自覚されないまま保持されます。

当人は、なんとかして「辛く苦しい幼少期」を生き残るために、その「何か」を強く握り込み続けます。

その結果、この「何か」は、青年期になってより強く握りしめられるようになり、社会に出てからも当人のことを支配し続けるのです。

自分が「何」を「なぜ」握り込むことになったかについて、はっきり理解しない限り、内側に育った「苦しみの大樹」を引っこ抜くことはできません。

世間に出回っているポジティブシンキングだとか、リラックス法だとかは、あくまでも「大樹の葉っぱ」をちょっと刈ることができるだけに過ぎないのです。

もしも「大樹」を根っこから引き抜こうと思うなら、自ら「内側の地獄」の中に入っていく他ないでしょう。

すなわち、「苦しみ」を徹底的に味わい尽くすのです。

それは、「苦しみ」について瞑想することです。

もしも当人が覚悟を決めて「自分の苦しみ」と直面するなら、それはやがて枯れて消えます。

ただ、それにどれだけの時間がかかるかは、当人がどれくらい強くその「何か」を握りしめているかによります。

あまりにも長期間にわたって握りしめていた場合、周りにある関連したものにまで、その人は執着しているかもしれません。

たとえば、学校の成績だけでは不安で、高い年収にまでしがみつき、さらには豪邸を建てることに執着し、生まれてきた我が子を社会的に成功させることまで考える人だっているかもしれません。

そういう人は、そうやって握り込んでいるものを、一つ一つ手放すことが必要になってしまいます。

「抱えているもの」が多ければ多いほど、「捨てる」のに時間がかかります。

でも、もしも「放棄」を続けるなら、どこかの段階で「苦しみの根」が枯れます。

そうなると、そこには「無根拠な幸福感」が発生し始め、当人は「苦しみ」から自由になれるのです。

もちろん、それ以降も生きていれば感情は発生し続けますから、再び「苦しみ」に囚われることもあります。

でも、もはやそれは「大樹」ではありません。

「穏やかな幸福感」の中に日々を生きている人は、ほんのわずかな「苦しみ」が生じた瞬間にすぐ気づくので、まだ「若葉」の内にそれを摘み取ることができるのです。


私自身は、今ではもうほとんど「苦しみ」を感じることがなくなりました。

だから、たまに自分の内側に「苦しみの若葉」を見つけると、「かつての自分の苦悩」を思い出して、懐かしさから、思わず微笑んでしまいます。

「あぁ、自分の中にはまだこんな囚われがあったのか。教えてくれて、ありがとう」

そんな風に、「苦しみ」に感謝することもあります。

なので、最終的には「苦しみ」を愛することさえ可能です。

でも、最初は無理です。

人が苦しみと初めて対面する時には、往々にしてそれは「若葉」ではなく、もはや「大樹」に育っているでしょう。

それをいきなり丸ごと愛することなんて、誰にもできません。

だからこそ、それは「自分の存在を賭けた闘い」にならざるを得ないのです。

でも、もしも「大樹」を根っこから引き抜けたなら、その人はもう自分で「苦悩」を育てることをしなくなります。

「苦しみの若葉」を見つけてはそれに感謝し、ただそのまま見つめることによって、これを溶かすことができるようになっていくのです。


あなたが今現在、どれだけの「苦しみ」を抱えているのかはわかりません。

ただ、一つはっきり言えることは、「どんな苦しみも必ず終わる」ということです。

もちろん、「激しい苦しみ」の渦中にいる時には、全くそうは思えないと思います。

ですが、どうかそこから目を逸らさないでください。

なぜなら、あなたが目を逸らせば逸らすほど、「苦しみ」はより深くあなたの中に根を張って、大きく育っていってしまうからです。

普通の植物は、目をかけて水や肥料をやることで育ちますが、「内側の苦しみ」は真逆です。

それはむしろ、あなたが「苦しみ」に対して無関心になるほど、より強固に根を張って育つのです。

それとは逆に、あなたが「苦しみ」を見つめ続けるならば、「苦しみ」は「養分」を受け取れなくなって枯死します。

「苦しみの養分」とは、あなた自身の「無関心」です。

実際、あなたが自分自身に関心を持たないならば、あなたは「自分がなぜ苦しいのか」について、何も理解できないままになってしまうでしょう。

逆に、あなたが自分自身に関心を持ち、「苦しみについて理解したい」と望めば望むほど、「苦しみ」は小さくなって消えていくのです。

そしてそれはまた、自分自身をありのままに受け入れることでもあります。

自分の中にどんな「地獄」があろうとも、それを直視する「勇気」を持った時、あなたは自分を受け入れます。

たとえあなたが幼い頃に、親や教師から受け入れてもらえなかったのだとしても、少なくとも、あなた自身はあなたのことを受け入れられます。

そしてそこから、「苦しみとの和解」は始まるのです。

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