あなたは、「金銭や名声を求めること」を「悪いこと」だと思ってはいませんか?
熱心に真理を探求している人の中には、「金銭や名声をいくら求めても、真理を悟ることはできない」と考えている人もいるのではないかと思います。
確かに、金銭や名声を追い求め続けても、それによって「真理」を悟ることはできません。
ですが、だからといって「金銭や名声の追求は悪である」という風に考える必要も、別になかったりします。
「じゃあ、どういう風に考えたらいいの?」という話になるわけですが、今回の記事では、この質問に答える形で文章を書いてみたいと思います。
いったい「金銭や名声の追求」について、どういう風に考えるのがよいのでしょうか?
では、いってみましょう。
◎自身の「執着」を抑圧する偽りの聖者と賢者たち
一般的に、「聖者とか賢者とか呼ばれている人は、金銭や名声に対して執着することはないものだ」と考えられていると思います。
つまり、お金や名誉のために媚びへつらったり、自己保身に走って他人を利用するような人は、「聖者や賢者としての資格がない」と人々から判断されるわけです。
そして、当の聖者や賢者(だと周りから思われている人)自身も、「金銭や名声に執着してはいけない」と強く思い込んでいる場合があります。
彼らは人々から「聖者」や「賢者」として持ち上げられることに慣れており、その立場を失うことを無意識に恐れているものです。
それゆえ彼らは、大衆からの期待に応えて、「金銭や名声を忌避しているかのような振る舞い」をするようになったりするわけです。
もちろん、本当に金銭や名声に興味がない「本物の聖者や賢者」もいるでしょう。
でも、「本物」がいれば「偽物」も存在するのが世の常というものです。
そして、「偽物の聖者や賢者」たちは、自分が「偽物」であるとバレることを恐れています。
だから、人々にそれがバレないように、「本物の振り」をするわけです。
つまり、あたかも本心から金銭や名声に興味がないかのように彼らは振る舞う傾向があるのです。
しかし、実際のところ、彼らはまだ本心では金銭や名声に「執着」していたりします。
というより、だからこそ、人々から今後も寄付や敬意をもらえるように、「本物の聖者や賢者」の振りをしているのです。
そこには「無執着」は存在していません。
実際には金銭や名声に「執着」しているのに、当人は周りの人々だけでなく、自分自身まで欺いています。
この自己欺瞞を当人が自覚することはなかなか難しいでしょう。
当人は、「自分は本心から金銭や名声への執着を捨てた人間だ」と思っています。
でも、「執着」はやっぱりそこに残っているわけで、当人は束縛されています。
それゆえ、もしも彼らの前に金銭や名声がちらつくと、彼らはそれを何か「おぞましいもの」ででもあるかのように、目一杯遠ざけようとします。
あたかも金銭や名声に触れたら自分が穢れてでもしまうかのようにです。
これは実のところ、非常によくある「抑圧のパターン」です。
当人の中には「金銭や名声への欲求」があいかわらず存続しています。
ですが、当人はその事実を直視したくありません。
それゆえ、「金銭や名声への欲求」を刺激するようなものが現れると、それを無理やり視界から遠ざけることで、「自我」を守ろうとするのです。
そこでもし金銭や名声を直視してしまうと、彼は自分の内側にある「金銭や名声への執着」を自覚せずにはいられなくなります。
しかし、それを認めてしまうと、「自我」がひどく傷ついてアイデンティティを保てなくなるので、当人は「強迫的なまでに金銭や名声を遠ざける」という極端な振る舞いをしてしまうわけなのです。
◎社会からは逃げられても、「執着」からは逃げられない
このように、「金銭や名声の追求を避けようとする」ということは、必ずしも「金銭や名声に対する執着がない」ということを意味しません。
実際には「金銭や名声に対する執着」がまだ自分の中に残っているのに、それを認められなくて抑圧しているだけだったりすることもあるわけです。
ここで、この記事の最初の問いに戻ってみましょう。
あなたは、「金銭や名声を求めること」を「悪いこと」だと思ってはいませんか?
もしも「金銭や名声を求めること」を何か「悪いこと」だと思って忌避しているのであれば、ひょっとすると、無意識に自身の欲求を抑圧しているのかもしれません。
というのも、本当に「金銭や名声に対する執着」がなくなった人というのは、「金銭や名声を求めること」について、それを「善いこと」だとも「悪いこと」だとも考えないからです。
このことについては、以前に一度記事を書いて論じたことがあります。
「善」と「悪」の鎖を断ち切る方法|「無分別」に至るために「事実」に留まることの意味
この記事の中で私は、「執着」を断ち切るためには、「善」と「悪」とに物事を分割することなく、「事実」のうちに留まる必要があるのだと書きました。
そもそも「善」と「悪」とは一緒に生起するものです。
それゆえ、もし仮に何かを「悪」としてしまうと、必ずどこかに「善」が生じることになってしまいます。
たとえば、「金銭や名声を求めること」を「悪」だと考えると、「霊的な成長」や「真理を探求すること」が当人にとって「善」となるでしょう。
もちろん、探求に向かう動機は必要なものです。
「真理を絶対に理解したい!」という真摯な想いがなければ、実践を続けていくことはできないでしょう。
しかし、だからといって、「金銭や名声を求めること」を「悪」だと思う必要はありません。
もしそのように思うなら、当人は「金銭や名声」を敵視することになり、それらを求める人のことを無意識に軽蔑するようになるでしょう。
そして、それらの敵視や軽蔑は、当人の中で束縛となります。
場合によっては、「金銭や名声を得ること」そのものをあまりにも蔑視するがゆえに、人間社会から離れて、山の中にこもってしまう人もいるかもしれません。
実際に、そういう探求者は歴史上たくさんいましたし、現代においてもいるでしょう。
たとえば、「日本社会で生活していたら真我実現は不可能だ!」と考えて、インドの山奥に行く人だって現実にいると思います。
ですが、実際のところ、「金銭や名声」を「悪」だと思う必要はありません。
日本社会の中で探求をおこなうことは可能ですし、別に隠遁しなくても真我実現は可能なのです。
社会から逃げ出す人たちというのは、実のところ、自分自身の内なる「執着」から逃げています。
当人の中にはまだ「金銭や名声に対する執着」があるものの、それを直視することが恐ろしいので、「そもそも金銭や名声にかかわらなくて済む環境(ヒマラヤの奥地とか)」へと逃げ出しているわけなのです。
しかし、もしもその「ヒマラヤ行き」が「自分の執着からの逃避」であれば、ヒマラヤは何の役にも立ちません。
むしろ、ヒマラヤで過ごすことによって、当人は自分の「執着」と直面しなくて済むようになります。
それゆえ、何年もヒマラヤで修行したけど、相変わらず「執着」が内側に生き残っている人も、世の中には存在するわけです。
◎私たちが本当に欲しいものは「絶対的な安心感」である
「執着」を破壊するのに必要なのは、ヒマラヤではありません。
ただ、自分で自分のことを観察する勇気があれば、それで足ります。
たとえば、金銭や名声を求めて生きている人を見かけた時、不意にそうした人々を軽蔑する気持ちが内に湧くかもしれません。
そうしたら、それを見なかったことにするのではなく、もっとよく観察するのです。
「なぜ、自分は彼らのことが気に入らないのだろう?」
このように自問してみるのです。
すると、実は意外と彼らのことが羨ましかったからだったりもします。
実際、「自分はかつて金銭や名声を求めたけれど、満足するだけそれらを手に入れることができなかった」と思って、それを「無念なこと」として感じている人は、金銭や名声を現実に手に入れている人々に対して、無意識に嫌悪感を抱くことがあります。
それは非常に微妙な嫌悪感ですが、よくよく観察してみると、その根は相手にあるのではなく、自分自身の内なる「執着」にあると理解できるでしょう。
私たちが誰かのことを嫌うのは、相手が「悪いやつ」だからではありません。
そうではなくて、私たち自身が抱えている「未解決の執着」が相手に投影されて、私たちに嫌悪感を催させているだけなのです。
では、いったいどうしたらいいのでしょうか?
この問題を解決するためには、「ひたすら自分自身を観察すること」がほとんど唯一の道であると、私は思っています。
つまり、自分の中に去来する様々な思考や感情を丁寧に観察し、それがどこから生まれてきて、どこに消えていくのかを理解するのです。
もしもそのような観察を続けるのであれば、当人はどこかの段階で気づきます。
「自分は『同じパターン』を何度も何度も繰り返しているだけだ」ということに、です。
実際、「金銭や名声を求め続けること」も、「金銭や名声を求める人々を嫌悪すること」も、「同じ一つの円環の中」で起こっていることに過ぎません。
そこに存在する「事実」は極めてシンプルだったりします。
それはつまり、「自分はやっぱり金銭も名声ももっと欲しい」という素直な気持ちが、内側に存在しているということです。
もしもこのことを「事実」として認めることができると、当人はさらに「次の段階」へと踏み込めます。
それは、「どうして自分はこんなにも金銭や名声が欲しいのだろう?」と自問することです。
その答えの表現は、おそらく人によってまちまちです。
ある人は、「金銭や名声を得ることで自信を持ちたかった」という理由かもしれません。
また別な人にとっては、「金銭や名声を得れば愛してもらえると思ったから」ということかもしれません。
ですが、結局、「最終的に行き着く結論」は一つです。
それは、「ただ『絶対的な安心感』が欲しかったから」というものです。
ある人は、自信を持てるようになれば、安心することができるようになると思っていました。
また別のある人は、誰かに深く愛されれば、今度こそ安心できると思っていました。
表面的に求めるものは人それぞれですが、私たち全員が心の底で本当に求めているのは、「絶対的な安心感」です。
何らかの条件に縛られず、ただ存在しているだけで感じられるような「絶対的な安心感」。
これが欲しいがために、私たちは金銭や名声を追い求め、時には真理を探求しようともするのです。
◎社会から逃避することなく、社会の中で「執着」を落とすことについて
ですが、金銭や名声は結局「相対的なもの」です。
それをどれだけ集めても、「絶対的な安心」に行き着くことはありません。
そして、もしも自分自身の内側を丁寧に観察し続ける習慣を持っていれば、当人は遅かれ早かれ、そのことを理解するはずです。
その時、「金銭や名声に対する執着」は自ずから落ちます。
「金銭や名声」を忌避するがゆえにではなく、ただ純粋にそこに「価値」を見出さなくなったがゆえに、「執着」が手放されるのです。
「無執着」というのは、本来そのようにして達成されます。
それはあくまでも「継続的な自己観察」の結果です。
もしも私たちが自分自身を観察し続けるなら、どこかの段階で当人は気づきます。
「私が本当に欲しかったものは『絶対的な安心感』だった。だからこそ、私は金銭や名声を追い求めたのだ」と。
そして、もしもそのような「自分の心」に従って、金銭や名声を実際に追い求めるなら、「こんなことを続けていても意味はない」と遅かれ早かれ当人は悟るでしょう。
「執着」は我慢することによっては落とせません。
「執着」が落ちるのは、我慢した時ではなく、「自分のしていることのバカバカしさ」をはっきり理解した時です。
「こんなことを続けても何の意味もない」という理解が、自然と私たちの「執着」を落とします。
だから、「金銭や名声を求めること」そのものは、別に「善」でも「悪」でもありません。
「金銭や名声を求めることはバカバカしいことだ」という理解がまだ起こっていないなら、それらを求めてみることにも意味があります。
なぜなら、「金銭や名声を求める欲求」が現に自分の中にまだ在るからです。
「バカバカしさ」を本当に深く理解するためには、実際にその中に身を投げ入れる必要があります。
遠くから「物欲しげ」に眺めていても、「真の理解」は訪れません。
実際、社会から逃避するのではなく、むしろ社会の中に入っていくことで、「執着」は浄化されていきます。
そうして一つずつ「執着」を溶かしていくことで、私たちは結果的に、「自由」へと近づいていくことができるのです。
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