最近、「身体的な感受性」を育てる技法について、いくつか記事を書きました。
【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ
「身体的な快楽」に依存しないために|「目」を通じて内側へと潜る「内観法」
これらの記事中で私は、身体の感覚を深める重要性について語っています。
しかし、探求がある程度進んでいる人は、こうした記事を読むと、こんな疑問を持つかもしれません。
「身体の感覚を深めることは、身体との同化を強化してしまわないのだろうか?」
この疑問は、探求における重要な要素である「識別(ヴィヴェーカ)」とかかわっています。
「識別(ヴィヴェーカ)」というのはつまり、「本当の自分(意識)」と「自分でないもの」を明確に区別して認識することを意味します。
なぜこれが探求において大事かと言うと、もしも私たちが「本当の自分」でないものを「これこそが自分自身だ!」と思い込んでしまったら、その対象によって束縛されることになるからです。
たとえば、「自分の中に浮かんで来る思考」を自分自身と同一視していると、「これは紛れもなく自分の思考だ」と当人は感じるでしょう。
すると、当人はそうして浮かんできた思考に執着してしまうことがあります。
「これが自分の考えだ」と思うがゆえに、当人はその考えの「正しさ」を他人に認めさせようとし始めるのです。
「お前たちの言っていることは間違っている!」
「私の言うことこそが正しいのだ!」
当人はそんな風に考えるようになるかもしれません。
というのも、もしもそうやって他人を「論破」できた場合、当人は「自分は正しい」と感じることができるからです。
つまり、当人が「思考」と「自分」を同一視しているがゆえに、「思考」のほうを「正しい」と言ってもらえると、「自分」まで「正しい」かのように当人は思えるわけなのです。
「この思考には価値がある」という認識が、当人の中では、「そんな思考の持ち主である自分にも価値がある」という考えと不可分に結びついています。
これが「思考との同化」です(もっと正確に言えば、「自我との同化」もかかわってきますが)。
ともあれ、「自分でないもの」を「自分自身」だと思い込むと、それによって当人は束縛されます。
だから、この束縛を破壊することで自由へと至りつくためには、「自分」と「自分でないもの」とを明確に切り分けて「識別」することが重要になるというわけなのです。
ちなみに、「識別(ヴィヴェーカ)」についても過去に一つ記事を書いていますので、「識別」について詳しく知りたい方は、こちらをお読みください。
【瞑想の実践における壁】思考や「自我」を切り分ける、「識別(ヴィヴェーカ)」の段階的成長
ということで、前置きがだいぶ長くなっていますが、話を本題に戻します。
私は基本的に感覚を磨くことを奨励しているわけですが、それは「身体との同化」を強化しないのかどうかということが、探求者によっては気になるでしょう。
つまり、既に「識別(ヴィヴェーカ)」の重要性を理解している人からすると、「感覚に深く根付くことで、身体を自分と同一視する錯覚が強まってしまうのではないか?」と思えるわけです。
ですので、今回の記事では、そういった疑問を持っている探求者のために、「感覚に根付くことは身体との同化を深めるのか?」、つまり、「感覚を深めることで『識別』は阻害されないのか?」ということを論じていこうと思います。
これが気になっている人はあまりいないかもしれませんが、テーマそのものとしては、おそらくほとんど全ての探求者に関係がある話です。
つまり、それだけ根の深い問題があるということです。
その問題とは、いったいどんなものでしょうか?
以下、説明していきましょう。
◎私たちは身体を硬直させることで、感情を抑え込む
先ほども書きましたが、私は感覚を深めることを奨励しています。
そして、「たとえ感覚を深めても、それによって『識別(ヴィヴェーカ)』が阻害されることはない」と思っています。
むしろ、「感覚を深めないと、『識別』の成長が阻害されてしまう」とさえ思っているほどです。
これが私の結論です。
「感覚の深化」は、「身体との同化」を強めるどころか、むしろ「身体との同化」を打ち破る鍵となります。
なぜそういうことになるのでしょうか?
「身体との同化」には様々なパターンがありますが、探求において最も問題となりやすいのが、次のようなタイプです。
それは、「そもそも身体を感じることができない」というパターンです。
実のところ、この論理はいささか複雑です。
「身体を感じていないなら、身体と同化しなくて済むんじゃないか?」と思う人もいるかもしれません。
しかし、「身体を感じることができない」ということは、「身体を『識別』できている」ということを必ずしも意味しません。
そこには、微妙ですが決定的な違いがあるのです。
しかし、そもそもどうして「身体を感じることができない」というような事態が発生するのでしょうか?
それは、当人が多くの感情を抑圧することによって起こります。
以前に書いた記事で私は、「感情を抑圧すると呼吸が浅くなる」と述べたことがありました。
【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ
実際、感情を抑え込もうとする時、私たちは無意識に身体を硬直させます。
それはたとえば、親から「泣くんじゃありません!」と怒鳴られた子どもを見るとよくわかります。
その子は涙をこらえるために、必死で唇を噛み締めて、こぶしを握り締めるでしょう。
全身の筋肉を硬直させ、泣き声を発さないように、自分で自分の感情を抑え込むのです。
たとえばあなたが職場で上司に理不尽に怒られた時、あなたはきっと無意識に身体を硬直させるはずです。
なぜなら、そうでもしないと叫ぶか殴るかしてしまう可能性があるからです。
もちろん、私たちが感情を抑え込むことは、社会生活上、ある程度必要なことでもあります。
ですが、それがあまりにも長く続いてしまうと、硬直した身体が元に戻らなくなってしまいます。
つまり、「身体の硬直」が慢性化して、柔らかな動きが不可能になるのです。
◎「マインドの束縛」は身体そのものを抑え込み、人は何も感じなくなる
こういった場合、当人は「感受性」を殺してしまっていることが非常に多いです。
なぜなら、いちいち繊細に感じ取ってしまうと、「過去の傷」が蘇ってきて苦痛だからです。
このような形で、私たちの中には無数の感情がしまい込まれています。
そして、そのように抑圧された感情は、身体の中に「硬直」という形で残存しています。
つまり、「感情への抑圧」が「身体への抑圧」にもなってしまっているということです。
OSHOという覚者は「身体とはマインドの粗大な部分であり、マインドとは身体の微細な部分だ」と言っていたことがありますが、それは本当のことです。
私たちの身体は内側の「マインド」を反映しており、私たちの「マインド」は私たち自身の身体に影響を与えます。
たとえば、気分が落ち込んでいる時には食欲があまり湧かないものです。
「気分が落ち込んでいる」という「マインドの状態」が、胃液の分泌や食欲にかかわる神経伝達物質のやり取りに影響を与えるわけです。
また、何かが怖くて仕方ない人は、身体が震えて止まらなくなります。
さらには、脈拍や呼吸のリズムが速くなって、汗をかき始めるかもしれません。
そして、イライラして仕方ない人は、身体を一つの場所に落ち着けておくことができません。
そういった人は、ジッとしていることができないので、絶えず歩き回ったり、貧乏ゆすりをしたりします。
このように、「マインドの状態」は身体にも反映されています。
つまり、もしも「マインド」の中に束縛があると、それは身体の中にも現れるということです。
そして、「マインド」をきつく束縛している場合、当人は自分の身体の存在にリアリティを感じることができなくなっている場合がほとんどです。
なぜならそういう場合、当人はあらゆる苦痛を感じなくて済むように、無理やり感受性を押し殺してしまっているものだからです。
こうなると、当人には人生全体が色あせて見え、「リアルなもの」などこの世のどこにもないかのように思えてきてしまいます。
当人には「自分は生きている」という実感がなく、身体はまるで死んでいるかのように無感覚です。
自分の心が何を望んでいるのかわからず、何をしても喜びを感じません。
それは、一見すると「身体と同化していない」かのように見えますが、実際のところは違います。
これは、「同化する・しない」という以前の問題であり、当人は身体をそもそも知らないのです。
そもそも知らないものについては「識別」のしようがありません。
逆に、探求者が探求の中で思考や感情を「識別」することができるのは、それらを丁寧に観察できるからです。
それがどんな風に現れて、どんな風に変化して、最終的に消えていくのか。
その生滅を子細に観察できるからこそ、「これはあくまで観察できる『対象』であって、『自分自身』とは別物だ」と当人は理解できるのです。
◎覚者は身体を感じながら、それでも身体に束縛されない
こうした理解は、思考や感情を丁寧に観察することで生じるものです。
逆からいうと、そもそも自分の思考や感情を自覚できていない人は、それらを「識別」することができません。
自覚的に観察することができるからこそ、それらを理解することができるのであり、その理解をもたらすものこそが「識別」なのです。
実際、覚者は「身体は『自分』ではない」とよく知っています。
しかし、彼は別に何も感じていないわけではありません。
むしろ彼は、非常に丁寧に自分の身体について観察することができます。
たとえば、彼は身体にわずかでも痛みがあればすぐに察知し、空腹が生じればそれに気づきます。
そして、自分の身体がどんな食物を欲しているかも、栄養素などの知識抜きに、感覚的に理解することができます。
また、満腹になればすぐそれに気づくので食べ過ぎることがありませんし、今いる場所が暑すぎたり寒すぎたりすると、すぐにそれを感じ取るのです。
世の中には、「真理を悟ったら、暑さや寒さを感じなくなるに違いない」と考えている人もいますが、そんなことはありません。
覚者も暑さや寒さは感じます。
その上で、特にそれを耐える必要がないのであれば、彼は「涼しい場所」や「暖かい場所」に移動します。
それは別に、暑さや寒さに彼が束縛されていることを意味しません。
むしろ、暑さや寒さを強く感じているのに、あえてその場にとどまり続ける人のほうが、自身の観念によって束縛されているのです。
「苦行者」というのはだいたいそういうものです。
たとえば、彼らは何日も断食したり、激しい陽射しの元で裸のまま立ち続けたりしますが、実際にはそうやって苦行を実践しながら、内側では「お腹が空いた」とか「暑くて死にそうだ」と考えていたりします。
そんな風に「お腹が空いた」とか「暑くて死にそうだ」と考えることなく実践に集中する時にだけ、苦行というのは意味があります。
逆に、本心では「ツライ」と思っているのに、無理やり我慢しているだけなら、それは当人の束縛を強化する結果しかもたらしません。
なので、覚者は暑さも寒さも我慢しません。
それは暑さや寒さに束縛されているからではなく、むしろ「無意味に我慢すること」から彼が自由になっているためです。
ですが、そのように自由に振る舞うためには、そもそも身体を深く感じることができていなければなりません。
覚者は身体と同化していませんが、身体を感じていないわけではありません。
むしろ、とても丁寧に身体の感覚を観察しています。
そして、その上で彼は「それでも身体は『自分』ではない」と知っているのです。
◎「苦しみ」を自覚し、それと直面することが自由をもたらす
これに対して、感情を抑圧することで無感覚になってしまっている人は、そもそも身体を観察することができません。
自分が今何を感じているのかさえわからないため、暑くても寒くても無頓着です。
それは、周囲から見ると「超然」としているように感じられることもあるでしょう。
でも、そもそも何も感じることができないがために「超然」としているのであれば、それは身体を「識別」しているわけではなく、身体から「分離」しているだけです。
身体を「識別」するためには、まず身体を感じられるようにならなければなりません。
つまり、感覚を育てることが必要です。
もしも感覚を深め続けるなら、当人の身体は徐々に柔らかさを取り戻していくでしょう。
身体の中にあった「硬直」は破壊されていき、深く息ができるようになっていくはずです。
しかし、その過程において、過去に抑え込んだ感情が必ず蘇ってきます。
なぜなら、感覚を深めていくことは、とりもなおさず、これまで長年かけて抑圧していた感情を掘り返すことを意味するからです。
それは自分でも抑えられないような「激しい怒り」かもしれませんし、相手を殺してしまいたくなるほどの「根深い憎悪」かもしれません。
でも、もしも束縛から解放されたいのであれば、それらを直視するほかありません。
なぜなら、束縛から解放されるためには、私たちは「自分自身の苦しみ」について、深く理解しなければならないからです。
人々は「苦しみ」から逃れる方法を探し続けます。
誰もが「苦しみ」から目を逸らす方法を求め続け、自分の気を紛らわそうとします。
ですが、「苦しみ」は当人の中にあります。
それは、どこまで行っても当人について回ります。
それゆえ、たとえ地球の裏側まで行っても、その人は「苦しみ」から逃れることができません。
なぜなら、その「苦しみ」は、「身体の硬直」という形で当人の中に埋め込まれており、解放される時を待っているからです。
だから、どこかで覚悟を決めて面と向かうことが必要です。
どのみち、どこにも逃げ場はないのです。
そして、もしもそのようにして「苦しみ」と向き合うならば、当人はやがてその「苦しみ」について理解するでしょう。
なぜそれが自分の中にあったのか。
それがどれほど表現されることを望んでいたか。
当人にはそれが理解できるようになるはずです。
束縛というのは、そのようにして破壊されます。
「束縛の破壊」というのは、精神論やマインドセットで達成するものではありません。
そうではなくて、「束縛からの解放」というのは、自分自身について深く理解した時に、結果として起こる「自然な成り行き」なのです。
◎終わりに
いかがでしたでしょうか?
もしも身体の感覚がなくなってしまっているとしたら、当人は自分自身について「無知」なままです。
当人は、自分の中にどれほどの「苦しみ」が埋め込まれているかを自覚することができません。
そして、知らないものは理解できませんし、理解していないものは超越できません。
全ては理解がもたらしてくれます。
そして、その理解を支えてくれるのが、自分自身への感受性なのです。
あなたは深く息をすることができますか?
「生きている」ということを深く実感できるでしょうか?
もしそれが難しいように感じるのであれば、あなたの中には抑圧された感情が眠っているのかもしれません。
その場合には、ぜひ感覚を育てていってください。
「生きている」という実感を取り戻してください。
あなたが真に活き活きとするようになった時、そこには既に「自分自身」に対する理解があるはずです。
もちろん、あなたは身体ではありません。
ですが、そのことを深く悟るためにも、「生の実感」が必要なのです。