【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ

今回は、呼吸を深める方法について解説したいと思います。

私は過去に、「呼吸に集中する瞑想」について解説したことがありました。

【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想

これは、「呼吸に伴って発生する身体の感覚に意識を集中する」という、瞑想を実践したことがある人からすると、もはや「お馴染み」の瞑想法ですね。

ですが人によっては、この瞑想法を実践することに困難を覚える場合があるかもしれません。

それは、「そもそも自分の呼吸を感じることができない」という場合です。

実際、「呼吸を感じてみようとしても、そこに何も感じることができない」という人は、けっこういるのではないかと思っています。

あるいは、「かすかに呼吸を感じはするのだけれど、あまりにもその感覚がか細くて、うまく観察し続けることができない」という人もいるでしょう。

今回の記事では、そういった人に向けて「どうやったら呼吸を感じることができるようになるか」を解説していこうと思います。

ただし、その道は決して「楽なもの」ではありません。

むしろ、なかなかの覚悟が要るとさえ言えるかもしれないです。

「それでもいいから呼吸を感じられるようになりたい!」という方は、ぜひ最後まで読んでみてください。

◎「呼吸」とは「命の表現」そのもの

では、これから話を始めていこうと思うのですが、その前に考えておきたいことがあります。

そもそも呼吸とは何でしょうか?

「呼吸は、呼吸でしょ?」とだけ思う人もいれば、「しないと死んでしまう大事なものだよ」と感じている人もいるかもしれません。

もちろん、「呼吸とは何か?」という問いの答えは、人の数だけあると思います。

ですが、それが私たちの生命活動と密接に結びついていることを否定する人は、いないのではないかと思います。

実際、「生きている」ということは、「息をしている」ということと不可分の関係にあります。

「死ぬこと」を「息を引き取る」とも言いますし、「いのち」という言葉の語源が「息(い)」の「ち(勢い)」であるという説も見たことがあります。

また、聖書では神はアダムに息を吹き込むことで、そこに命を宿したとされています。

このように、古来から「呼吸」というものは、ほとんど「生命」と同一視されてきた経緯がありました。

もしこの考え方に立つならば、「自分の息を感じることができない」ということは、とりもなおさず「自分の生命を感じることができない」ということを意味するでしょう。

そして、そのように考えることには、それなりの妥当性があります。

実際、呼吸が浅い人というのは、多くの場合、生命活動が弱まっていて、活力がなくなっているものです。

逆に、深く呼吸ができている人は、精力的に仕事や趣味に没頭しており、疲れ知らずだったりもします。

しかしそれは、肺活量がどうとかといった話ではありません。

それは、肺に取り込める空気の容量の問題というよりも、いかに深く当人が呼吸を感じることができているかという問題なのです。

実際、呼吸を深く感じることができている人は、「自分は呼吸に根付いている」という感覚を持っているものです。

そういう人の呼吸は細く長いのが特徴で、それでいて、か細く切れしまうような「弱さ」がありません。

呼吸そのものは安定していて、むしろ「生命の力強さ」を宿しているようにさえ感じられるでしょう。

逆に、呼吸が浅い人の場合、当人には自分の呼吸がうまく感じられません。

呼吸は短く途切れがちとなり、「自分は呼吸に根付いている」という実感を持つことも難しいものです。

また、日常的に「はっ、はっ…」とあえぐように呼吸をする傾向があり、当人はあたかも身体に十分な酸素が足りていないかのように、「慢性的な息苦しさ」を感じています。

しかし、いったいどうしてこのような違いが生まれてしまうのでしょうか?

呼吸法やボディワークの指導者たちの中には、その原因を幼少期の経験に求めている人たちがいます。

つまりそういった指導者たちは、人々が幼少期に感情を抑圧したことによって、当人の呼吸が浅くなってしまったのだと考えているのです。

ちなみに、私もだいたい同じように考えています。

なぜなら、私自身がまさその典型だったからです。

以下、私自身の経験を一つの症例として提示し、解説していこうと思います。

◎子どもたちは「苦しみ」を抑圧する過程で、「深い呼吸」を失っていく

私は、両親が共働きの家に産まれ、孤独な幼少期を過ごしました。

そして、そのような環境に身を置いていたがために、私は「他者からの愛情」にひどく飢えるようになっていったのです。

ですが、どれほど「愛情」を求めても、それはなかなか手に入りませんでした。

なぜなら、私の両親はいつも仕事と趣味に夢中になっていて、私のことは基本的に後回しになっていたからです。

誰もいない家に一人きりで過ごすことの多かった私は、「愛情」を与えてくれる相手を見つけることができず、黙って我慢しているしかありませんでした。

つまり私は、「お願いだから愛してほしい」という言葉を飲み込み続けなければならなかったのです。

おそらく当時の私は、そのような寂しさを自覚することがひどく苦痛だったはずです。

それゆえ、無自覚にそれを抑圧したのではないかと思います。

言い換えれば、私は「自分の寂しさ」を自覚しなくて済むレベルまで、呼吸を抑え込むようになっていったということです。

先ほど、「呼吸は生命と関連がある」という話をしましたが、実のところ、呼吸は感情とも深いかかわりがあります。

たとえば、あなたは「怒りの感情」が湧いた時に、「自分の呼吸」が変化するのを感じたことはありませんか?

「怒り」にはそれ固有の呼吸のリズムがあり、もしも私たちが「怒り」に囚われると、たちまち私たちの呼吸は変化するのです。

また、「悲しみ」にもそれに固有の呼吸のリズムがあり、「楽しい時の呼吸」を保ったままだと、私たちはうまく悲しむことができません。

呼吸法の実践が精神の安定に寄与する理由も、実はここにあります。

つまり、呼吸法の実践を通じて呼吸のリズムを安定したものにすることによって、「怒りの呼吸」や「悲しみの呼吸」に引っ張られないようになるわけです。

それゆえ、呼吸法に熟達してくると、自分の中に感情があることは認識できますが、それに飲み込まれることがなくなっていきます。

感情に圧倒されて我を失うことなく、冷静に物事に対処できるようになっていくわけです。

ですが、まだ幼かった昔の私には、当然ながらそのようなことはできませんでした。

どうしても自分が感じている寂しさや悲しさに圧倒されて、飲み込まれそうになってしまったわけです。

そういう時に、かつての私のような「幼い子どもたち」がどうするかというと、大人たちが呼吸法を実践する時と逆のことをします。

つまり、強制的に呼吸を弱めることで、苦痛な感情そのものを抑圧するのです。

これが、現代人の多くがうまく呼吸できない理由です。

そもそも、生まれた時はみんなちゃんと呼吸ができていました。

「おぎゃー!」と泣いて生まれなかった人はいないはずです。

むしろ、「おぎゃー!」と泣き叫ぶことをしない赤ん坊は、「うまく呼吸ができていない」と医師や助産婦に判断されて、強制的に泣くように促されます。

この「産まれた時はできていた呼吸」が弱まってしまうのは、当人が感情を抑圧するためです。

つまり、自分の中の「不快な感情」に対して見えないように蓋をするために、「そもそも感情を感じることができなくなるレベル」まで、当人は呼吸を弱めてしまったわけです。

私自身はその後、大人になってからボディワークや呼吸法の訓練をすることによって、徐々に深い呼吸を取り戻していきました。

自分の呼吸を実感できるようになり、生命活動も前より活発になったと思います。

と、こう書くと、「それは良かったじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、ことはそう簡単には運びません。

というのも、浅くなっていた呼吸を深めていく過程で、当人は避けようもなく「過去に抑圧した感情」と直面することになるからです。

ここから先は一筋縄ではいきません。

人によっては、「過去の記憶」が蘇ってきて辛くなる可能性もあります。

続きを読む覚悟はよろしいですか?

では、いきましょう。

◎幼少期に抑圧された「願い」を叫ぶ

先ほども言いましたように、呼吸と感情は深くリンクしています。

つまり、浅くなっていた呼吸をもう一度復活させるということは、かつて無意識に抑圧した「苦痛な感情」を蘇らせることと同義です。

それゆえ、ボディワークや呼吸法を指導することに熟達している指導者は、ワークが順調に進むことによって、当人がかえって一時的に不安定になるということをよく知っています。

実際、呼吸法を実践するようになってしばらくしてから、私は急にイライラしやすくなってしまいました。

呼吸法を実践すれば心が安定するものとばかり思っていた当時の私は面食らい、様々な書物を紐解き、答えを求めたものです。

そうして私は、呼吸法の実践を続けていくと、自分の呼吸に紐づいた「古い記憶」が再生してくるということを知りました。

急にイライラするようになったことを「何か間違ったこと」のように思い込んでいた私は、「実のところ、話は逆だったのだ」とわかりました。

つまり、「イライラしやすくなる」というのは、むしろ呼吸法の実践における自然な過程であって、「避けることのできない関門」なのだと私は理解したのです。

それから後、私はOSHOという覚者が考案した「ダイナミック・メディテーション」という瞑想法を実践するようになりました。

この瞑想法の中には、身体を激しく動かしたり、浮かんできた言葉を大声で叫び続けたりするフェイズがあります。

人によっては「なんでそんなことをする必要があるんだ?」と思うかもしれませんが、これは私にとって必要なプロセスでした。

なぜなら、私の無意識の中には多くの思考や感情が抑圧されて眠っていたからです。

以前の連載記事の中で私は、「苦しみを味わうことができれば、その苦しみは消えていく」と書いたことがあります。

【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について

「苦しみ」に限らず、あらゆる感情は味わうことによって消失します。

つまり、「自分に起こった感情」をきちんと成仏させようと思ったら、そこから目を逸らさずに徹底的に見る必要があるのです。

ですが、無意識の深くに抑圧された「古い感情」というものは、当人に自覚することが非常に困難です。

なぜなら、仮に自覚的に味わおうと思っても、それが表層に浮かんでこないからです。

それゆえ、そういった「古い感情」を自覚的に味わうことができるようにするために、「半ば無理やり感情を引っ張り出す」という「荒療治」が必要になるのです。

私にとっては、それが「ダイナミック・メディテーション」の実践でした。

私はひたすら叫び続ける中で、突然「どうして愛してくれなかったのだ!」と叫びたくなる衝動を、自分の内側に強く感じました。

それは文字通り唐突に湧き上がってきた叫びでした。

なぜなら私は、自分がそれまでそんなことを思っていたとは、全く自覚していなかったからです。

おそらくそれは、私の幼少期の寂しさに根を持っている叫びだったのでしょう。

私はその感情を感じなくて済むように深く抑圧し、無意識に目を背け続けてきたのです。

私はその衝動のままに叫び続けました。

「どうして愛してくれなかった!」
「なんでそばにいてくれなかった!」

私は喉が痛くなるくらいまでそうした言葉を叫び続けました。

当時、実践は防音設備のある施設でおこなわれており、私は思う存分その感情を解放することができたのです。

「ダイナミック・メディテーション」が終わった時、私は自分の呼吸が前より深くなっていることに気づきました。

まるで「胸のつかえ」がとれたかのように吸う息は全身の隅々にまで行き渡り、吐く息は細くて長い安定したものになっていたのです。

そこには「晴れやかな感覚」があり、「苦しみからの解放感」があったことをよく覚えています。

◎浅い呼吸を続ける限り、人は「生きること」も「自由になること」もできない

このように、「呼吸を深める」というのは、言うほど簡単なことではありません。

ですが、それを避けることもできません。

もしも呼吸が浅いまま生きていくなら、当人の人生はどんどん色褪せていってしまうでしょう。

呼吸とは「命の表現」そのものであり、もし呼吸を抑え込み続けるなら、当人は十分に生を味わうことができなくなるからです。

また、真理の探求をしていく場合にも、どこかで「抑圧していた感情」と直面することになるでしょう。

なぜなら、「苦しみ」から目を逸らし続ける限り、当人は「執着」を去ることができず、自由を得ることも叶わないからです。

反対に、もしも感情を深く味わって消失させることができたなら、その時当人は「穏やかな解放感」の中で、深く呼吸することができるようになるでしょう。

そしてそれは、「生きること」そのものを深く味わうためにも必要なことであり、「苦しみ」から自由になるためにも避けることのできない道なのです。

以上、前置きがものすごく長くなってしまいましたが、ここからが本題です。

とはいえ、必要な情報の共有は既に終わりましたので、この先はスムーズに話を進めていけるのではないかと思います。

その本題とは、「具体的にどうやって呼吸を深めるのか?」ということです。

それでは、説明していきましょう。

◎【呼吸を深めるファーストステップ】感覚を意識的に味わう

ここからは、二段階のステップを踏んでいきます。

最初のステップでは「感覚を深める」ということに注力し、次のステップで「感情を解放する」ということにエネルギーを注いでいきます。

まず最初のステップである「感覚を深めるフェイズ」からいきましょう。

これは、とにかく呼吸を感じられるようにしていく段階です。

そもそも、あまりにも強く「呼吸=感情」を抑圧してきた人というのは、感受性そのものがかなり弱ってしまっています。

いわゆる、「自分が何を感じているのかわからない」という状態です。

こういった状態にある人は、自分の感覚や感情を自覚することができず、何をしても心が動かされることがありません。

自分の心が何を欲しているかについても自覚することが困難なため、「自由に過ごしていいよ」と言われると、何をしたらいいのかわからなくなってしまうこともあります。

つまり、「自分が本当は何をしたいのか」が、当人にもよくわからなくなっているわけです。

こういった場合、思考や感情の根本にある当人の五感が鈍ってしまっていることが多いです。

たとえば、触っている物の手触りの違いがわからなかったり、何を食べていても味を十分に感じられなかったりします。

こういう場合、仮に「古い感情」を呼び起こそうと思っても、当人はそこにリアリティを感じることができません。

たとえば、さっき書いた私の例で言えば、私の中に埋め込まれていた想いは「なんで愛してくれなかったのだ!」という叫びだったわけですが、そもそも感受性が弱まってしまっている段階の人は、こうした言葉を真剣に叫ぶことができません。

なぜなら、当人はそれを「自分自身の本心である」と感じることができないからです。

それゆえ、無理に叫んでみたところで、当人は白けてしまいます。

「こんなことをして何の意味があるんだ?」とさえ感じるかもしれません。

「古い感情」を解放するためには、それを深く味わうことが必要なのですが、抑圧があまりにも強すぎると、当人はそれを「自分の感情だ」と認めることができないのです。

このような感情に対する「ブロック」を解除するために、まずは「感覚そのものを深める」ということをしていきます。

具体的には、何をする時にも、意識的にその感覚を味わうようにするのです。

たとえば、何かを触る時にはその感触に意識を集中します。

また、ご飯を食べる時には、舌に生じる味の感覚に自覚的に意識を向けていきます。

人によっては、「それって意味あるの?」と思うかもしれませんが、実のところ、これは感受性を育てる時の「王道」です。

たとえば、ワインのソムリエの人たちは、とても繊細な味覚を持っています。

それぞれのワインが持つ独特な味わいを感じ分け、ワイン一つ一つについて品評することができます。

なぜそういうことができるかというと、彼らが常日頃からたくさんのワインを深く味わっているからです。

実際にソムリエの人がワインの品評をしているところを見たことのある人はわかると思います。

彼らは決して「雑な飲み方」はしていません。

ほんのわずかな量だけを口に含み、それをじっくりと味わってから、そのワインについて語るのです。

逆に、アルコール依存症の人は、「雑な飲み方」をしています。

そういった人たちは、量だけはたくさん飲んでいますが、味覚が磨かれることはありません。

むしろ、飲めば飲むほど感覚が鈍麻してしまって、よりたくさんの酒量を求めるようになっていくはずです。

このように、私たちの感覚というのは、ただ単にたくさんの情報を入力すれば鋭敏になるわけではありません。

感覚を深めていく際には、自覚的にそれを味わうということが不可欠なのです。

逆に、自覚的に味わうということをしていないと、たとえ何十年も生き続けていても、当人の感覚は鈍いままだったりします。

ですので、弱まってしまっている感覚を蘇らせるためには、あらゆる感覚を自覚的に味わうということが大切です。

このことに気づくと、日常の全てが「修練」として利用できるということがわかります。

実際、感覚と全く無縁な瞬間というのは、そうあるものではありません。

たとえば、目に映る景色を意識的に眺め、その鮮やかな色合いの中に心を沈めることもできるでしょう。

花の香りを楽しむこともできれば、樹々が風に揺れる音に静かに耳を澄ませることもできるはずです。

そして、こういったことの全てが、当人の感覚を深めてくれるのであり、それこそが感受性を育てる際の「王道」なのです。

◎【呼吸を深めるセカンドステップ】感情をありのままに解放する

以上が、呼吸を深めるためのファーストステップです。

感覚を自覚的に味わうことによって、徐々に感受性が開かれてきて、自然と自分の呼吸も感じやすくなっていくでしょう。

しかし、先ほど上のほうでも書きましたように、感受性が開かれてくると「古い記憶」も蘇ってきます。

かつて感受性をあえて殺すことによって抑圧した「深い苦しみ」が復活してくるのです。

この段階まで来ると、おそらく当人は「自分の中に抑圧された感情がある」ということが自覚できるようになっていると思います。

つまり、私の例で言えば「どうして愛してくれなかったのだ!」という叫びに対して、リアリティを感じられるような段階に到達するわけです。

この段階になると、当人は自分の内なる叫びを「どこか白々しい言葉」としてではなく、「紛れもない自分の本音」として実感できるようになってきます。

ここまできたら、「次のステップ」に進むことが可能です。

すなわち、そうして蘇ってきた「過去の感情」の解放です。

「なぜ愛してくれなかった!」
「どうしてわかってくれなかった!」

そういった当人の絶望の叫びを、全身全霊で表現し切ります。

それによって、これら「過去の感情」は当人に深く味わわれることになり、素直に成仏して消えていくのです。

しかし、私がかつてやったように、「大暴れして大声で叫ぶ」というやり方は、実践するのが難しい人がほとんどでしょう。

家でやったら近所迷惑になってしまいますし、外でやっていたら通報されかねません。

そこで私が推奨する方法は、「誰にも見せない自分だけのノートに書きなぐる」というテクニックです。

これは、精神科医の泉谷閑示氏が『「普通がいい」という病』という本の中で紹介しているものであり、私自身も実践してみて効果を実感している方法になります。

やり方は非常に簡単です。

まず、自分以外に決して見せない紙のノートを準備します。

そうしたら、家で一人きりの時に、そのノートに思ったことを書きなぐるのです。

「上司に対する文句」でもいいですし、「親に対する憎悪の言葉」でもいいです。

ふと思いついた「言いたいこと」をどんどんノートに書いていきます。

もちろん、行儀よく綺麗に書く必要はありません。

場合によっては言葉にさえならなくて、感情のままにデタラメな線や図形を書きなぐることもあるでしょう。

それでも全く構いません。

たとえ明確な言葉にならなくても、それもまた一つの「感情表現」だからです。

そうして「書く」という行為に没頭していると、自分の中に埋まっていた「古い感情」が表現され、一つずつ解放されていきます。

ひとしきり書き切った後にはきっと、晴れ晴れとした気分になっていることでしょう。

ただ、ひょっとすると最初のうちは、何を書いたらいいかわからなくて困惑するかもしれません。

つまり、人によっては、書くことをさっぱり思いつけない場合もあるわけです。

そういう場合には、まずファーストステップである「感受性の成長」を優先させてください。

もしも「感受性」が十分に成長してくると、当人は「自分の中に今どんな感情があるか」ということが、明確に自覚できるようになっていくはずです。

この「感情の自覚」ができるようになってくると、それに関連する「言いたかったこと」も、自然と出てくるようになります。

セカンドステップである「感情の解放」は、それができるようになってからでも遅くはありません。

そして、もしも「言いたかったこと」を思う存分書き尽くしてしまえば、その感情は消失し、当人は解放感を感じ、深く息をすることができるようになることでしょう。

◎【終わりに】「自由に生きること」ができるようになるために

いかがでしたでしょうか?

「呼吸を深める」というのが、実は並大抵のことではないということが、お判りいただけたのではないかと思います。

ですが、「呼吸を感じられない」ということは、「自分の命を感じられない」ということでもあります。

実際、無意識に息が浅くなってしまっているがゆえに、「自分の生命」を実感できなくなっている人は世の中に多いものです。

そして、真理の探求においても、自分自身が抱えている「苦しみ」と向き合うことは、避けることができません。

自身の「執着」を断ち切るためには、その「執着」の根がどこにあるのか見極めることが不可欠だからです。

つまり、自分で自分のことが理解できていないと、「執着」を断ち切ることはできないということです。

自分について理解する上で、深く安定した呼吸は非常に役に立ってくれます。

なぜなら、そうした深い呼吸こそが、「自分が抱いている感情に対する感受性」を支えてくれるものだからです。

自分が何によって束縛されているかを自覚するためには、「自分自身に対する感受性」が必要です。

そして、そのための方便の一つとして、「呼吸を深める」という道がこの世には存在しているのです。


⇓⇓真理の探求についての連載記事へはこちらから⇓⇓