【筆者の失敗談】探求で出会う「よくある罠」|「霊的な覚醒」は悟りに必要なのか?

あなたは「霊的な力」の向上に興味がありますか?

たとえば、予知やテレパシー、波動や氣を操ったりするような能力です。

真理を探求をしている人の中には、ひょっとすると「霊的な能力をひたすら高めていけば、その先に悟りがあるのではないか?」と思っている人もいるかもしれません。

ですが、実のところ、「霊的な能力」は悟りに必須ではありません。

自分の思考や感情を観察できるだけの「霊性」があれば、それで十分です。

でも、やっぱり「特別な力」を欲しくなってしまうのが、人情というものです。

ということで、今回の記事では私の過去の失敗をお伝えして、「『霊的な力』を求めても、あんまりイイことはありませんよ」ということをお示ししたいと思います。

いわゆる「しくじり先生」というやつですね(ひょっとして、これはもう古いでしょうか?)。

では、いってみましょう。

◎武道の道場で習った瞑想法や呼吸法に関して、独自リサーチを始めた理由

「霊的な力」というと、瞑想法を連想する人は多いのではないかと思います。

実際、過去の私も「瞑想をすることによって『特別な力』を手にしたい」と思っていた時期がありました。

当時の私はまだ20代で、「真理を理解すること」よりも「社会的な成功」を追い求めていた時期でした。

とにかく「人から認めてもらいたい」という気持ちが強くて、それを自分でもなかなか抑えられなかったのです。

そもそも、どうして私が瞑想を実践するようになったかと言うと、当時通っていた武道の道場で、瞑想法と呼吸法が指導されていたからでした。

しかし、私はそれまでの人生で、瞑想法にも呼吸法にも、一切かかわったことはありませんでした。

それゆえ、この「新しい世界」に私は興味を持つようになり、熱心に実践するようになっていったのです。

しかし、私が通っていた道場では、瞑想法や呼吸法のやり方だけは指導されるものの、「論理的な説明」についてはほとんどなされませんでした。

せいぜい「こういう風な感覚をイメージしなさい」と言われるくらいのもので、「なぜこの道場の流派では瞑想法や呼吸法が大事にされているのか?」とか、「そもそも瞑想法や呼吸法にはどんな効果があるのか?」とかいったことも、ほぼほぼ説明されなかったと記憶しています。

「いいから、黙ってやりなさい」という、ある意味で体育会系方式だったのです。

しかし、私のブログを読んでくださっている人はわかると思いますが、私は「論理的な説明」を強く求めるタイプです。

「なぜこうすることが必要なのか?」
「このプロセスにはどんな意味があるのか?」
「この段階における注意点はなんなのか?」

そういったことを理解できないと、なんとなく気持ちが片付かなくて、実践に集中できません。

それで、仕方がないので、私は自分で調べてみるようになりました。

たとえば、瞑想法や呼吸法についての書籍を買って読んでみたり、自分の属している流派のトップの人が書いた文書を読んでみたりもしました。

また、瞑想法や呼吸法について体系的に説明してくれそうな人を見つけると、その人が開いている講座を受けに行ったこともあります。

もちろん、こういうことは、普通の武道の道場ではあまり奨励されないでしょう。

自流の偉い人が書いた文書を読むのはまだしも、他流の講座に積極的に行ったりすると、自分の道場の教えがうまく受け入れられなくなってしまう可能性があるからです。

ですが、知的好奇心を抑えられなかった当時の私は、師範には黙って、こっそり「調査活動」を続けていました。

そして、少しずつ少しずつ、瞑想法や呼吸法がどういう意味を持つものなのかがわかるようになっていったのです。

◎瞑想法の目的が、「思考を静めること」だとわかった経緯

そんな風に、数か月ほど「調査」をおこなった結果、私は「どうも瞑想法というのは集中することによって、思考を静かにするためにおこなうものであるらしい」ということがわかるようになりました。

「数か月も調査して、それしかわからなかったの?!」と言われそうですが、当時はまだ瞑想というものはマイナーで、科学的・体系的に書かれた書物は非常に少なかったのです。

中には、スピリチュアル色が全開で、論理的な説明が一切ないものもありました。

そんな玉石混交な状況の中、私はどうかこうか「瞑想とは集中を利用して思考を閉め出すための行法だ」ということまでは理解できたわけです。

ちなみに、私はこのブログで瞑想の実践についてかなり詳しく論じています。

主に、探求についての連載における第三部で瞑想を四つの段階に分けて解説しました。

連載第三部記事一覧

四つの段階というのは、以下の通りです。

  • 第一段階
    「集中する瞑想」の実践によって、思考を静める段階。
  • 第二段階
    「集中しない瞑想」の実践によって、瞑想を無意識化していく段階。
  • 第三段階
    瞑想を日常生活の中で実践することで、「自我」への気づきを深めていく段階。
  • 第四段階
    「自我」が沈黙する中で、ただ「在る」という感覚に留まる段階。

こうして見ると、当時の私が理解できていたのは、第一段階の「集中する瞑想」まででした。

その先の段階があるということは、その時の私にはまったくわかっていなかったのです。

ですが、とにかく当時の私は「思考を静かにするのが瞑想の目的なのだ」とだけ考えて、とにかく思考を静めることにエネルギーを注ぐようになりました。

それまでは、なんで道場で瞑想法をさせられるのかさっぱりわからなかったわけですが、「目指すべき方向性」がわかったことで、私は気持ちを落ち着けて、実践に集中することができるようになったのでした。

◎呼吸法の実践によって感知できるようになった「氣の流れ」

また、呼吸法についても、私はいろいろと調べてみました。

そして、どうも呼吸法というのは、「氣の流れ」というものを感知してコントロールできるようになるための行法であることがわかったのです。

「氣の流れ」というとなんだか怪しいのですが、実際に呼吸法を実践していると、自分の身体の中を、何か波のようなものが通り抜けていく感覚を感じるようになっていきます。

たとえば、「背骨に氣を通す」とか「腕に氣を通す」とか言ったりするのですが、そのイメージが具体的に持てるようになると、実際に背骨や腕に独特の感覚が発生し、当人は本当に「氣」が通っているかのごとく感じるようになっていくのです。

もちろん、それだけだったら、「単なる自己暗示」で終わってしまうわけですが、
呼吸法に熟達してくると、他人の身体を通る「氣の流れ」まで感知できるようになっていきます。

たとえば、稽古で組む相手の「氣」が、どこに集中的に向かっているか、またどこで詰まって滞っているかが、感覚的に察知できるようになるのです。

私は、道場に入門して呼吸法の稽古し始めて3年か4年が経った頃、不意にそのことに気づきました。

稽古相手の隙や死角が、感覚的にわかるようになったのです。

そして、「相手の氣の流れ(と私には感じられていたもの)」を導くようにしてやると、とても綺麗に技がかかるようになっていきました。

逆に、「相手の氣の流れ」に反した方向に無理やり動かそうとすると、技が失敗することもわかるようになったのです。

このような段階まで行ったとき、私は初めて「なぜ道場の稽古で呼吸法をやらされるのか」ということの意味がわかりました。

自分自身の「氣」を整えて、稽古相手の「氣」を導く。

それができるようになるために、呼吸法の実践が必要だったのだと理解したのです。

また、このような理解には、瞑想法の実践もかかわっていました。

というのも、瞑想法の実践によって「内側の思考」が静まると、ますます鮮明に自他の「氣の流れ」が感知できるようになっていったからです。

おそらく、「内側の思考が静まっている」ということが、自他の身体への冷静な観察を可能にしてくれていたのだと思います。

呼吸法の実践によって「氣の流れ」が感知できるようになり、それと同時に、瞑想法の実践によってますます感知能力が向上する。

こういった好循環を生み出すことが、どうもその道場で弟子たちに呼吸法や瞑想法をさせる理由だったのではないかと、今では思っています(まあ、結局最後まで師範からはほとんど詳しい説明がされなかったので、全ては私の推測なわけですが)。

ただ、ここで話は終わりません。

ここで終わりなら、「呼吸法と瞑想法の実践で、武道にも習熟できてよかったね」ということになりますが、そこで「あること」が起こったのです。

いったい何が起こったのか?

私の「しくじり」はここから始まります。

◎「自分は『真理』を悟った特別な人間だ!」という観念が生じる時

先ほど、私が道場に入門して3~4年経った時点で、「氣の流れ」を感知できるようになった話を書きました。

さっきは当たり前のことのようにサラッと書きましたが、当時の私にとって、この変化は大きな衝撃だったのです。

というのも、突然、自分の身体の中を流れる無数の「波」のようなものが感知できるようになり、さらには道行く人々の身体にも、それが感覚的に見えるようになっていったからです。

それは実際、当時の私にとっては、天地がひっくり返るくらいの「大きな変化」でした。

しかし、「道行く人の身体に『波』のようなものが見える」というのは、いったいどういう状態なのでしょうか?

たとえば、歩きスマホをしている人については、当人の注意がスマホの画面に集中していることが誰の目から見てもわかると思います。

そういう状態は、言わば「氣」がスマホに向かって取られている状態です。

こういうことくらいだったら、誰でも見ればわかるのですが、私たちの意識というのは、けっこう散漫なもので、日常的にあっちに行ったりこっちに行ったりしています。

そして、呼吸法や瞑想法の実践によって、自他の「氣の流れ」が感知できるようになった当時の私は、そういった「人々の意識の流れ」のようなものが、だんだん見て取れるようになっていったのです。

だからこそ、稽古相手の隙や死角が察知できるようにもなったわけですが、その「力」は道場の中だけに限定されませんでした。

私は日常的に街ですれ違う無数の人々の「氣の流れ」が感知できるようになり、「誰の意識がどこに向いているか」ということが、かなり詳しくわかるようになったのです。

ですが、もちろんそれに気づいているのは私だけでしたし、私が感知した「氣の流れ」を科学的・客観的に証明することもできません。

すると、どうなったかと言いますと、

「世の中の人々には『真実』が見えていない!『真実』が見えているのは自分だけだ!」と私は考え始めたのです。

後の流れはもうおわかりですね?

私は徐々にイライラしやすくなっていきました。

なぜなら、私は自分のことを「選ばれた特別な人間」であるかのように考え始め、「周りの人間はそれがわかっていない!」と思うようになっていったからです。

でも、だからと言って、自分のほうから「もっとオレのことを尊敬しろ!」なんて言うことはとてもできませんから、私は黙って一人で不貞腐れているしかなかったのです。

そして私は、上記のような自分が理解したことについて、ホームページを立ち上げて、ネット上で情報発信し始めました。

「自分には『真理』がわかっている!でも、他人はそれが見えていない!」

そんな想いに取り憑かれながら、私は一人きりで懸命に叫び続けました。

「誰でもいいから、オレのことをちゃんと認めてくれ!」と願いながら。

◎探求の旅において、「よくある罠」にハマらないために

このように、瞑想法や呼吸法などを実践していくと、「不思議な力」が目覚めるのは「よくあること」なのではないかと思います。

しかし、当人の中に「未解決の執着」があると、そういった「力」に飲まれてしまいます。

私で言えばそれは、「もっと人から認められたい」という「執着」でした。

この「執着」があったために、私は自分が獲得した「力」を「他人に自分の存在を認めさせるため」に行使しようとしてしまったのです。

一番最初でも書きましたが、「真理」を悟るのに「霊的な能力」は必須ではありません。

自分の思考や感情を観察できるだけの「霊性」があれば十分です。

逆に、まだ「執着」が残っている状態にあるにもかかわらず、「霊的な能力」が開花してしまうと、かえって危険でさえあります。

場合によっては過去の私のように、「自我」が暴走してしまうこともあるでしょう。

ちなみにその後、私は紆余曲折あってその道場を破門になり、いつからか「氣の流れ」も見えなくなってしまいました。

要するに、私は何の能力持たない「ごくごく普通の人間」に戻ったわけです。

今も「氣の流れ」はさっぱり見えません。

むしろ空気が読めないので、他人とのコミュニケーションには苦労するくらいです。

ですが、そんな人間でも「真理の探求」については、一応最後まで歩き通せました。

そして今、私はそんな自分の旅路を、このブログで発信しているわけです。

でも、過去にホームページを開設して情報発信していた時と、今の私はいったい何が違うんでしょう?

私自身にはっきりと言えることは、私にとって「真理の探求」というものが、徹頭徹尾「執着」を捨てるための旅だったということです。

そして私は、「苦しみの受容」と「瞑想の実践」によって、「本当の自分とは『意識』であり、私たちの存在の本質は『至福』なのだ」と理解しました。

とはいえ、もちろんそれを科学的・客観的に証明することはできません。

だから、あなたも注意してください。

私の言っていることを頭から信じる必要はありません。

むしろ、半信半疑くらいのほうがちょうどよいのではないかと思っています。

なぜなら、半信半疑の人は、きっと自分で「本当かどうか」を確かめようとするからです。

それに対して、頭から信じ切ってしまっている人は、自分の足で歩かずに、私の話を聞いただけで「わかったような気分」になって、それで満足してしまうかもしれません。

もちろん、私の話を頭から全く信じていない人も、実践をすることはないでしょうから、やっぱり探求には向かわないでしょう。

探求の旅は長く続きます。

私はできる限りその道筋を詳細に示すようにいつも努めてはいますが、だからといって、「真理」を科学的・客観的に証明することはできません。

一人一人が自分の足でその道を歩き切って、自分自身で「真偽」を確かめるしかないのです。

そして、その旅路の途中には、多くの「罠」が口を開けて待っています。

過去の私がハマったのは、そんな「罠」の内の一つでした。

あなたが、過去に私がハマったのと同じような「罠」に陥らないことを、私は切に願っています。


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