前回の記事を書いた後に、補足しておいたほうがいいことがあったに思い至りました。
前回の記事の最後では、「次回から『意識=真の自己』について書いていきます」と言っていたのですが、もう少しだけ「純粋な喜び」についての話を続けます。
なので、今回はいわば「補講」のような位置づけとなります。
⇓⇓ちなみにこちらが前回の記事です⇓⇓
【第6回】「純粋な喜び」に留まる際のジレンマ|「執着」と「自由」の選択について
では、始めていきましょう。
◎「終わりのないゲーム」を続けるか、そこからの解放を求めるか
前回の記事で私は、大人になってから再び「純粋な喜び」を見出した時、人は二つの選択を迫られると書きました。
一つ目の選択肢は「執着による『苦しみ』の再生産を繰り返す生き方」であり、もう一つの選択肢が「『純粋な喜び』に留まることを優先する生き方」です。
もしも「前者の生き方」を選べば、当人は「人生の楽しいこと」を思う存分追い求めることができます。
それはたとえば、大金を稼いだり、たくさん旅行に行ったり、美味しい料理を食べたり、当人が「楽しい」と感じることを追い求め続ける生き方です。
ですが、「楽しいこと」を追い求めることは、必ずしも当人を「幸せ」にするとは限りません。
というのも、たとえどれだけ努力しても、「楽しい想い」ができるとは限らないからです。
たとえば、「社会的に成功してたくさんの人から尊敬されたい」と当人が望んでいたとしても、それが実現するかどうかは、やってみないとわかりません。
また、もし仮にそこそこ成功できたとしても、多くの場合、当人は「こんなのまだまだだ」と考えて、「さらに上」を目指し続けます。
たとえば、世の中のインフルエンサーは、自分のフォロワー数の増減に一喜一憂しているのではないでしょうか?
社会的な影響力の大きいインフルエンサーは、きっと数万人単位のフォロワーを抱えているのではないかと思います。
にもかかわらず、当人は「もっとフォロワーの多い他のインフルエンサー」と自分とを比較して、自身の現状を不満に感じることが多いのではないかと思います。
それに対して、世の中には自分のフォロワーがたった数人しかいなくても、別に気にしていない人もいます。
そう考えると、フォロワーの数というのは、当人が何にどれだけ「執着」しているかによって、必要だったり必要じゃなかったりするということになるでしょう。
もちろん、「フォロワーを増やし続けるゲーム」を心底楽しむことができるのであれば、それでいいと思います。
でも、世の中には、そうやって「終わりのないゲーム」に参加して、その結果に一喜一憂し続けることに意味を見いだせない人もいるわけです。
そういう人は、二つ目の選択肢を選びます。
それが「『純粋な喜び』に留まることを優先する生き方」です。
「純粋な喜び」は、特に何かを達成しなくても感じることができます。
それゆえ、当人は「自分は何かを成し遂げねばならない」という束縛感から解放されます。
そして、まさにその解放感が、胸のあたりで「穏やかな心地よさ」として感じられるわけです。
ですが、だからと言って、「何かをする」ということそれ自体を、全てやめなければならないわけではありません。
ここからが今回の補講でお伝えしたかったことです。
では、説明していきましょう。
◎「『純粋な喜び』を維持しよう」という欲求も、「執着」の一つである
「純粋な喜び」が、「執着」からの解放を意味すると聞くと、「じゃあ、もうこれからはどんな行為もしちゃダメってこと?」と疑問に思う人もいるかもしれません。
ですが、別にそんなことはありません。
というよりも、そもそもそんなことは不可能です。
生きていくなら、日々何かをし続けなければなりませんし、ほとんどの人は仕事だってしないといけないでしょう。
実際、私が「純粋な喜び」を感じるようになった当時、私はある職場で事務員の仕事をしていました。
仕事中はずいぶんいろいろなことをしていましたが、それによって「純粋な喜び」が消えてしまうことはありませんでした。
なぜなら、私は別に、仕事をすることに「執着」してはいなかったからです。
たとえば、「この職場でもっと出世して、お金をたくさん稼ごう」とは思っていませんでしたし、「たくさん成果を上げて、上司や同僚から称賛されたい」とも思っていませんでした。
私の関心は「純粋な喜び」のほうにあり、それがあれば満足だったからです。
もちろん、何か突発的な出来事が職場で持ち上がって、仕事が大忙しになったりすると、その忙しさによって「純粋な喜び」が一時的に見えなくなることはありました。
また、当時はまだ「純粋な喜び」に今ほどしっかりと根付いていなかったので、「仕事で失敗したらどうしようか…」と心配になることもありました。
つまり、「称賛されたい」とまでは思っていなくても、「失敗して失望されたくない」という風には思っていたわけです。
そして、そんな風に失敗を気にして不安になった時も、「純粋な喜び」は奥に引っ込んでしまい、感じることができなくなったものです。
ですが、たとえ忙しさの中で我を忘れてしまっても、その「忙しい時間」が過ぎ去れば、また「純粋な喜び」は戻ってきました。
そして、「失敗を恐れることから生じる苦しみ」についても、味わって溶かしてしまえば、再び「純粋な喜び」に戻ることは可能だったのです。
ですからこれは、「自分の軸足をどちらに置くか」という問題にすぎません。
もしも「執着し続ける生き方」に軸足を置くのであれば、「純粋な喜び」はどんどん遠ざかっていきます。
逆に、「純粋な喜び」に軸足を置くのであれば、たとえ日常生活の中で「執着」が生じそうになったとしても、当人はすぐにそれを味わって溶かしてしまい、「純粋な喜び」に戻っていくことができます。
そもそも、「純粋な喜び」に初めて戻ってきたばかりの頃というのは、まだ「執着し続ける生き方」をしていた頃の名残りで、「執着」が生まれやすい傾向があります。
だから、いきなり完璧を目指して、「これから一生、常に『純粋な喜び』に留まらなければ!」なんてことを考えても、それは達成できません。
むしろ、そのように「完璧」を目指すことそれ自体が、「強力な執着」として働いてしまい、当人は自分自身を束縛することになってしまうでしょう。
そして、結果的にその「束縛感」は、本来なら解放的なものである「純粋な喜び」に蓋をしてしまい、かえってそれを感じにくくさせてしまうはずです。
だから、もしも「『純粋な喜び』に留まる生き方」を選んだとしても、「執着ゼロ」を目指す必要はありません。
「執着」は生じる時には生じるものですし、もし生じたなら、意識的に味わうことで溶かせばいいだけです。
実際、私もいまだに「執着が常に完全にゼロ」というわけではありません。
「ゼロの状態」を基本にはしていますが、生きていれば「微妙な増減」はあります。
そもそも、私がこうしてここで文章を書いていることだって、ある意味では「執着」の一つと言えばそうでしょう。
ですので、もしも「やりたいこと」があるのであれば、思い切りやってみることをオススメします。
無理に我慢する必要はありません。
むしろ、「我慢すること」は当人の中に「束縛感」を生み出し、余計に「執着」を強くしてしまうからです。
そうして「やりたいこと」を意識的に味わっていれば、あなたはやがてそのことに飽きてしまいます。
そうしたら、もう一度「純粋な喜び」へと戻っていったらいいのです。
◎「帰るべき家」を知っている人は、飽きることを恐れない
「やりたいこと」があるのであれば、我慢しないでやったほうがいいと思います。
そうして、十分楽しんで飽きたなら、「純粋な喜び」に戻っていったらいいと思います。
ですが、世間一般の人たちというのは、物事に飽きた時に「帰っていく先」を持っていません。
それゆえ、「さらに高い目標を設定して挑み続ける」か、「何か別の新しい『楽しいこと』を探し続ける」か、いずれかの道を終わりなく歩み続けます。
なぜなら彼らは、絶えず何かをし続けないと、自分の人生が「空虚」に感じられて、耐えられないからです。
それに対して、「純粋な喜び」に帰っていく術を知っている人は、「飽きる」ということを恐れません。
こうした人たちは、「空虚さ」の中にはむしろ「喜び」が在るということを理解しています。
だから彼らは、「もしも『したいこと』が何もないのなら、『何もしないこと』の中に留まればいい」と楽観的に考えています。
実際、そうして何もしないでいることで、「純粋な喜び」は戻ってくることが、彼らには経験的にわかっているからです。
それはちょうど、子どもが「やりたいこと」を見つけて遊びに出かけ、思う存分(飽きるまで)それを遊んで楽しんだ後に、「我が家」へと帰ってくるようなものです。
「純粋な喜び」を知っている人は、自分にとっての「帰るべき家」がどこに在るかを知っている人です。
それを知っているからこそ、多少、そこから「外」に出かけることを恐れません。
そして、最終的には「我が家」に帰ってきてくつろぐことを愛しています。
そこに矛盾はありません。
なので、もしも「やりたいこと」があるのであれば、やってみたらいいと思います。
もしもあなたがそれをとことんまでやり尽くしたら、いつかあなたは飽きてしまいます。
そして、そのようにして「外に出て飽きては我が家に帰る」ということを繰り返していくと、当人は徐々に自分から「外」に出たいとは思わなくなります。
「純粋な喜び」に留まることそのものを好むようになり、「執着」を自分から生み出しにくくなっていくのです。
もちろん、それはすぐには起こらないかもしれません。
「純粋な喜び」の最初の一瞥(いちべつ)を体験したくらいでは、「外側の世界への執着」は断ち切れないでしょう。
でも、無理に断ち切る必要はないのです。
もしも「純粋な喜び」に繰り返し戻っていくなら、「執着」は自然と消えていきます。
それは硬く凍った氷の塊が、温かな炎の熱でゆっくりと溶けていく様子に似ています。
実際、「純粋な喜び」は、当人の「執着」を溶かすでしょう。
そして、「執着」が溶ければ解けるほど、当人は「純粋な喜び」に留まることを好むようになり、自分で自分を束縛することをしなくなるのです。
その時、自分を不自由にしていたのは親や社会などではなく、自分自身だったのだということを、当人は理解します。
自由になるためには、誰の許可も必要ではありません。
そして、自分自身を解き放つための鍵は、この「理由のない喜び」にこそあるのです。
ということで、今回は補講論点でした。
「補講」と銘打ちはしましたが、これは結構重要なポイントだったかもしれません。
いずれにせよ、次回こそ本当に「意識=真の自己」について扱おうと思います。
では、また次回。
⇓⇓次回の記事です⇓⇓