【第7回】世界はなぜ「この自分」からしか見えないのか?「意識」の謎について

前回まで、数回にわたって「純粋な喜び」について説明してきました。

私たちの存在の本質は「純粋な喜び」であり、そこに至るためには、自身のうちに積み重なった「古い感情の層」を取り除く必要があります。

そして、「古い感情の層」を取り除くには、「苦しみ」を味わう必要がある、という話でした。

最終的に、「純粋な喜び」に到達した人は、自分を満たすために忙しく走り回る必要を感じなくなります。

なぜなら、「特別な何か」をしなくても、ただ存在しているだけで、「満たされた感覚」を感じることができるようになるからです。

その結果として、当人は「あれを得なければ」「これを達成しなければ」といった「執着」から徐々に自由になっていき、「穏やかな解放感」とともに生きていけるようになるのでした。

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【第3回】感情が持つ二つの性質と、「純粋な喜び」について

【第4回】「純粋な喜び」に至るためには何をしたらいいのか?

【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について

【第6回】「純粋な喜び」に留まる際のジレンマ|「執着」と「自由」の選択について

【第6.5回】「純粋な喜び」に執着する必要はないことについての解説

以上で、「純粋な喜び」についての説明は「一区切り」ということとし、今回からは、いよいよ「意識」についての説明に入っていこうと思います。

では、始めます。

◎「意識」と「純粋な喜び」は、「同じもの」の別な現れである

「意識」というのは何かというと、私たちにとっての「真の自己」です。

つまり、「本当の自分」ということですね。

【第2回】「自分」というものの本質は何か?

実のところ、「純粋な喜び」というのは、「意識」を別な角度から見たものです。

「意識」と「純粋な喜び」は本来的に同一のものであり、それがつまりは「真の自己」です。

「真の自己」を知的に認識した場合、それは「意識」として現れてきて、感覚的に認識した場合には「純粋な喜び」として感じられます。

ですから、今回から「意識」についての話には入るものの、今まで解説してきたことと全く関係ないことが始まるわけではありません。

むしろ、今まで語ってきたことを、別な角度から語っていくことになります。

ただし、人によってどちらの角度からの説明が理解しやすいかは、異なると思います。

知的な認識を好む人は「意識」についての説明のほうがしっくりくるでしょうし、反対に、感覚的な認識のほうがわかりやすい人は「純粋な喜び」についてのほうが理解しやすいかもしれません。

ですから、もしもこれまでの「純粋な喜び」についての記事を読んで、「自分は向いてないかもしれないな」と思っていたとしても、ここからの「意識」についての話は理解しやすい可能性があります。

もちろん、逆もしかりです。

これから始まる「意識」についての話がよく理解できなくても、「純粋な喜び」についての説明がしっくりくるようであれば、そちらから優先して実践を始めてしまって、問題ありません。

最終的にはどちらの認識も必要になりますが、一方を理解できると、もう片方は自然と理解しやすくなるようになっています。

先に「純粋な喜び」を理解すると、「意識」について理解しやすくなるし、逆に、先に「意識」について理解すれば、「純粋な喜び」に自然と当人は進んでいくことができるでしょう。

ですので、絶対的な優先順位というものはありません。

「自分に向いているな」と感じたほうから、実践を始めてみてください。

では、「意識」について、具体的な話に入っていきましょう。

◎「この自分」が特別であるのはなぜか?

「意識」について理解するためには、ちょっと哲学的な想像をしてみると助けになるかもしれません。

たとえば、あなたは子どもの頃に「どうして僕/私は『自分』なのだろう?」というような疑問を抱いたことはありませんか?

自分以外の友達や親たちは、「この自分」とは決定的に違っています。

たとえば、あなたはあなたの目を通して友達や親の身体を見ますが、同じような仕方で自分自身を見ることはできません。

「鏡を使えば見れるよ」という人がいるかもしれませんが、鏡に映っているのはあくまで鏡像であって、自分の肉眼で直接自分の顔を見ることはできません。

どういうわけか、あなたにとって世界はあなたの目からしか見ることができず、逆に、あなたは他の子の目を通して世界を見ることができないわけです。

世界は常にあなたを中心に開かれており、そういう意味で、あなたの存在は「特別」なのです。

もちろん、ここで言う「特別」というのは、「あなたが他の子より特別である」というような意味ではありません。

たとえば、あなたの学校の成績が他の子よりも優秀であるとか、家がすごいお金持ちであるとか、顔がとっても整っているとか、そういった理由で「特別」なわけではありません。

ただ、なぜだかわからないけれど、世界を見る時に、あなたは「この自分の目」を通してしか見ることができません。

あたかも「世界の中心」があなたであるかのようです。

私がさっき「特別」と言ったのはそういう意味です。

そもそもそこには、「他の子との比較」は成り立ちません。

他人と比較するまでもなく、あなたは端的に「あなた」であるのです。

それは、あなたの人間的な属性に左右されません。

たとえば、あなたが夜に眠って夢を見る時、あなたは別な人間になることがあります。

体格や年齢が違っているかもしれませんし、時には性別まで違うかもしれません。

それにもかかわらず、夢を見ているのは「あなた」であり、この「自分」という感覚をあなたは夢の中で疑うことはないはずです。

不思議だとは思いませんか?

世間一般の考え方では、「世界」という大きなものが外側に在って、「自分」というのは無数にいる人間のうちの一人に過ぎないということになっています。

もちろん、そのように考えることは自然なことですし、人間社会で生きていくためにもそういう前提で考えることが必要です。

しかし、この広い世界の中で、あなたにとって「自分」というのはたった一人しか存在しません。

むしろ、世界のほうが「自分」によって照らし出されて現れているかのようです。

このように、「自分」というのは「全てをただ観ている者」であり、それこそが「本当のあなた自身」なのです。

◎「真の自分」について理解するための道が「瞑想」である

こういった意味での「自分」のことを、真理の探求の世界では「意識」と呼びます。

インド哲学では「プルシャ」とか「チット」と呼ばれることもあります。

私たち大人は、「世界のほうが自分より先に存在していて、自分は無数の人間の中の一人に過ぎない」という考え方を、全く疑っていません。

ですが、まだ幼い子どもたちは、そうは考えていないことがあります。

もちろん個人差はあるでしょうが、ある種の子どもたちは、「むしろはっきり存在しているのは、世界より『この自分』のほうじゃないかな?」という風に、漠然と感じていることがあるのです。

「何を馬鹿なことを言っているんだ?」と思う人がいることは、私も理解しています。

まだ「意識」を理解するための具体的な方法を実践していない段階では、上記のような考え方を受け入れられないことも、大いにあり得ることです。

むしろ、そういう人のためにこそ、「技法」というものは存在しています。

頭で考えるだけで納得できたら苦労はありません。

頭でただ考えるだけではなく、自分自身で深く実感できて初めて、私たちは納得できるものです。

ですので、これから先の記事では、理論的な説明だけでなく、「意識」について理解するための技法の解説もしていくつもりです。

というよりむしろ、たぶん「技法の解説」のほうがメインになるのではないかと思っています。

なお、その技法とは、「瞑想」のことです。

「瞑想」というと、一昔前に流行った「マインドフルネス瞑想」をご存じの方もいるかもしれません。

ただ、「マインドフルネス瞑想」と私がこれから説明していこうと思っている「瞑想」にはいくつか違いがあります。

そもそも「マインドフルネス瞑想」は、精神的な疾患を抱えた人の治療を目的として開発された背景があります。

そしてそこから、「仕事の能率を上げる効果もあるらしい」と噂になり、たとえばGoogleが社員の研修に「マインドフルネス瞑想」を取り入れたりしていました。

つまり、「マインドフルネス瞑想」は、心理療法や一種の仕事術として活用されていたのです。

ですが、私がこれから解説していく「瞑想」は、そういったものとは目的が違います。

「どちらが正しい・間違っている」という話ではなく、そもそも目的が違うのです。

私がこれから解説していく「瞑想」は、「本当の自分とは何か?」を、自身の体験を通じて理解するためのものです。

つまり、「自分」というものの本質を知ることが、私の説明していく「瞑想」の目的なわけです。

◎「自分でないもの」と「自分」を同一視すると束縛が生まれる

ここで一つ、質問をします。

あなたは「自分」とは何のことだと思っていますか?

人によっては、親から与えられた名前のことを「自分」だと思っているかもしれません。

そういう人は、多くの人からその名前を呼ばれ、「この人は素晴らしい人だ!」と称賛されると、とても気分が良くなります。

逆に、多くの人からその名前を呼ばれ、「この人は愚かでどうしようもない!」と言われると、今度は気分が滅入ってきます。

もしも「自分」のことを名前や肩書や人格のことだと思っていると、当人はそれらを誉められたら嬉しいでしょうが、逆にそれらを貶されたら深く傷つくことになるでしょう。

でも、私たちにとって「自分」というのは、本当に、名前や肩書や人格のことなんでしょうか?

確か、古代ギリシャの哲学者であるエピクテートスの話だったと思いますが、彼にはこんなエピソードがあります。

ある男の人が、エピクテートスに会いに行って、自分が持っている馬がいかに素晴らしいかを力説しては得意になっていました。

すると、その話を聞いていたエピクテートスは、「あなたはその馬なのか?」と言いました。

「もしも馬自身が自分の素晴らしさを誇るならわかるが、あなたは馬の持ち主であって、馬ではない。だから、そもそも『自分自身ではないもの』を持ち上げて、得意になるのはやめなさい。」

そんな風にエピクテートスは言ったそうです。

現代でも、同じようなことがあります。

たとえば、自分の娘や息子の優秀さを、あたかも自分の優秀さの証明であるかのように考えている親がたまにいます。

そういった親は、自分自身では何かを成し遂げたわけではないのに、「娘や息子が偏差値の高い学校に入った」とか、「子どもたちが有名な上場企業に入社して高給取りになった」とかいったことを、これみよがしに他人に自慢するものです。

そして、その親は他人が我が子のことを羨望の眼差しで見ていると、とても上機嫌になります。

なぜなら、まるで自分自身のことを称賛されているように感じるからです。

反対に、もしも娘や息子が何か失敗を犯してしまい、学校を退学処分になったり、勤め先をクビになったりすると、カンカンになって怒ります。

なぜなら、それによって「自分の価値」まで下がるように当人には感じられるからです。

つまり、娘/息子という「自分ではない人間」のことを、その親は「自分」と同一視してしまっているわけです。

ですが、こういったことは、実のところ、親子の間でだけ起こっているわけではありません。

たとえば私たちは、自分の名前や自分の肩書、自分の人格や自分の身体などを「自分自身」だとしばしば思い込んでいます。

そして、それらが他人から褒められると大喜びし、逆に、それらを侮辱されるとカンカンになって怒るのです。

でも、本当に名前や肩書や人格や身体などは、「自分自身」なのでしょうか?

ひょっとしたら、エピクテートスに対して自分の馬をあたかも「自分自身」であるかのように自慢したあの男と、同じ「勘違い」をしているのではないでしょうか?

もしも名前や肩書や人格や身体といったものの全てが、「自分自身」でないのだとしたら、私たちはそういったもろもろのものから自由になれます。

他人がそれについて何を言っても気にすることなく、「自分自身」として在ることができるわけです。

逆に、たとえば、自分の身体を「自分自身」と同一視している人は、身体が醜くなることに我慢ができません。

当人はきっと、年を取っても綺麗でいられるよう必死にアンチエイジングするでしょうし、人によっては整形手術もするでしょう。

でも、どんな人間もいつかは老いてしまいます。

その時、もしも身体と「自分」とを同一視していた人は、「苦しみ」を避けることができません。

そこには「執着」の構造があり、当人は身体を「自分」と同一視することで、自分で自分を束縛しています。

この束縛から自由になるためには、「本当の自分」とは何かを知らなければなりません。

もしも「本当の自分」が身体であるというなら、もう諦めるしかありませんが、実際のところ、私たちは身体ではありません。

身体は私たちにとって、あくまでも乗り物のようなものです。

それは私たちを運んでくれますが、「私たち自身」ではないのです。

ちょうど、馬(乗り物)と馬の持ち主(乗る人)が別々であるのと同じことです。

このことを深く理解すると、他人から自分の身体についてなんと言われても、別に気にならなくなっていきます。

逆に、「自分」と身体を同一視するならば、当人は身体のことを気にし続けなければならず、それが当人にとって束縛となるのです。

◎私たちを束縛しているのは、私たち自身であるということ

これまで過去に書いた記事を読まれた方は、既に私が同じような話を「純粋な喜び」についても語ったことを知っているかもしれません。

「楽しいこと」を追い求め、「苦しいこと」を避けようとすることによって「執着」が生まれ、それによって当人は自分で自分を束縛してしまいます。

ですが、もしも「純粋な喜び」について深く理解すると、「執着」は徐々に溶けていき、当人は束縛から解放されて自由になるのです。

私たちは一般的に「自分は誰かのせいで束縛されている」と考えています。

たとえば、「社会によって束縛されている」と感じている人もいますし、「親によって束縛されている」と感じている人もいます。

ですが、よくよく観察してみると、私たちを束縛しているのは、他でもない私たち自身だったりします。

このことは最初、とても受け入れがたいことです。

中には、腹を立てる人もいるかもしれません。

そのことは私も理解しています。

ですが、実際に「意識」や「純粋な喜び」について深く理解できるようになるにしたがって、「確かにその通りだったな」と納得する日がきっと来るのではないかと私は思っています。


今回は、ひとまず「イントロダクション」ということで、少し雑談っぽくいろいろな話題に触れてみました。

人によると、わかったようなわからないようなフワフワした感じになってしまったかもしれません。

ですが、今の段階では、それで全く問題ありません。

実際に「瞑想」を実践していけば、今回の記事で書いた内容は、自分の体験として理解できるようになっていきますから。

ということで、次回からしばらく「瞑想」について書いていこうと思います。

まずは「瞑想」の目的や全体像について説明し、その次に具体的な実践方法を書いていこうと予定しています。

では、また次回。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第8回】「瞑想」の実践の全体像|四つの段階のロードマップ