【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について

前回の記事で私は、「私たちの内奥にある『純粋な喜び』に至るためには全ての感情に飽きる必要がある」と書きました。

【第4回】「純粋な喜び」に至るためには何をしたらいいのか?

「純粋な喜び」の周りには多くの「感情の層」が積み重なっており、それらを取り除かない限り、「純粋な喜び」を感じることはできません。

そして、そのような「感情の層」を取り除く方法は、「感情を徹底的に味わい尽くして飽きること」です。

自分の感情に対して、「ああ、いつものあれね、はいはい」と感じるくらいまで飽きた時、その感情は消失します。

そして、それによって「純粋な喜び」を覆う「感情の層」はちょっとだけ薄くなります。

もしも「感情を飽きるまで味わう」ということを続けるなら、当人が抱える「感情の層」はどんどん薄くなっていき、やがてはその奥に最初から存在していた「純粋な喜び」に辿り着けるわけです。

ですが、ここで問題が発生します。

それは、おそらくほとんど全ての人が、「楽しさだったら味わってもいいけど、苦しみだけは味わいたくないよ」と言いたくなることです。

しかし、「苦しみ」もまた感情の一種です。

それは当人の中に「層」となって積み重なっており、本人から見てもらえるのを待っています。

それゆえ、「苦しみ」を直視しない限り、「純粋な喜び」に辿り着くこともできないのです。

今回の記事では、「苦しみを味わうための具体的な方法」をお伝えします。

なかなかしんどいテーマですが、どうか最後までお付き合いください。

「苦しみ」を味わう際の三つのポイント

まず最初に、「苦しみ」を意識的に味わう際の大事なポイントをまとめます。

それは、以下の三つです。

1,「苦しみ」について思考しないこと
2,「苦しみの感覚」に意識を向けること
3,日常の「小さな苦しみ」から始めること。

この三つを意識してください。

これらはとても重要なポイントです。

では、これらについて一つずつ説明していきましょう。

1,「苦しみ」について思考しないこと

まず一つ目の、「『苦しみ』について思考しないこと」から説明します。

「『苦しみ』を飽きるまで味わう」というと、人によってはそれを、ひたすら苦悩することだと想像するかもしれません。

ですが、実際にはそうではありません。

私が言っている意味での「苦しみを味わう」という行為は、「自分の苦しみ」をただそのまま感じ続けることです。

たとえば、「将来の不安」が襲ってきて、苦しくなってしまったとします。

その際に、人によっては「あぁ、どうしよう…。自分はもうおしまいなんじゃないか…?」と考えて、不安でいっぱいになってしまうかもしれません。

そして、そういう場合、おそらく当人は無意識に不安をどうにかしようと思って、あれこれ考え始めます。

たとえば、「やっぱりお金はもっとたくさん無いとダメかもしれない…」と考えるかもしれませんし、「自分は仕事をこれからも続けていけるだろうか…?」と心配するかもしれません。

さらにはひどくなると、「病気になって仕事ができなくなったら、どうしたらいいんだ…?」と考え出し、「もしも知らないうちに癌になっていたらどうしよう…!」といったことまで考え始める人もいるかもしれません。

これらの思考は、当人が何とかして不安を解消したいと思っているからこそ、湧いてくるものです。

そして、こういったことをグルグル考え続けることで、当人はますます不安になってしまいます。

その結果として、不安がどんどん強まるものだから、当人は「どうにかしなきゃ!」と思ってさらに焦ってしまい、最後にはパニックを起こしてしまうわけなのです。

この時、当人は将来のことが不安で仕方ありません。

それゆえに、さまざまなことを考え続けてしまうわけですが、私はそんな風にグルグルと考え続けることを推奨しているわけではありません。

大事なことは、思考を追いかけないことです。

考えれば考えるほど、余計に苦しくなるだけですから。

もちろん、「苦しみ」と向き合うことは大事です。

そうでないと「苦しみ」に飽きることはできません。

でも、「余計な苦しみ」を作り出す必要もないのです。

ですから、「苦しみ」を味わう際には、思考を追いかけていかないことが大切です。

もちろん、「そんなこと言ったって、どうしても考えが浮かんできちゃうよ」と言いたくなる人がいることは、私も理解しています。

そこで、この点を解決するために、次のポイントの解説に進みましょう。

すなわち、「『苦しみの感覚』に意識を向けること」です。

2,「苦しみの感覚」に意識を向けること

ここまで、「苦しみ」を味わう時に、「余計なこと」を考えすぎてはいけない話をしてきました。

でも、やっぱりグルグルと考えてしまうのが人間というものです。

そこで、グルグルと考え続けずに済むための方法を、お教えします。

それが、「『苦しみの感覚』に意識を向けること」です。

たとえば、あなたがふとした瞬間に不安を覚えたとします。

するときっと、胸のあたりになんとなくモヤモヤしたような感覚がするはずです。

さらに不安が強くなると、そのモヤモヤはザワザワした感覚へと変わり、最終的には、はっきりとした痛みの感覚に変わると思います。

このように、私たちが「苦しみ」を感じる時、そこには何らかの感覚が伴います。

というよりも、もしも何の感覚も伴っていなければ、当人はそれを「苦しみ」として自覚することができません。

「苦しみ」というのはあくまでも感情の一種であって、頭で考えるものではなく心で感じるものだからです。

だからこそ、私は「苦しみを《味わう》」という表現を使いました。

私は決して、「苦しみについて考える」とは言いませんでした。

実際、別に「苦しみ」について考える必要はありません。

ただ味わえばいいのです。

もしも胸がモヤモヤしてきたら、その「モヤモヤした感じ」に意識を向けて、自分から丁寧に感じようとしてみてください。

もちろん、それは「不快な体験」です。

しかし、もしもあなたがモヤモヤを意識して感じ続けると、それはどこかの段階で小さくなって消えていきます。

この世に「永遠に続く感情」というものはありません。

どんな感情にも、私たちはそのうち飽きてしまいます。

それは「苦しみ」だって同じことです。

私にこの方法を教えてくれた山家さんは、これを「苦い飴玉」を舐め続けるようなものだと言っていました。

もちろんそれは「苦い」のですが、ずっと舐めていると、「飴玉」はだんだん小さくなって、最後には口の中から消えてなくなります。

「苦しみ」を味わう時にも、それと同じことが起こります。

「苦しみ」が持つ「苦味」をずっと味わっていると、「苦しみ」は徐々に小さくなって、最終的には消失します。

つまり、その「苦しみ」に飽きてしまうということです。

そのためには、思考を追いかけまわさずに、感覚に意識を集中することが大事です。

繰り返しますが、もちろんそれは「不快なこと」です。

ですが、一度「苦しみというものは自分で溶かすことができる」ということを学んだら、生きていくのがとても楽になります。

なぜなら、「苦しみ」を避ける必要がなくなるからです。

かつてお釈迦さまは「生きることは苦である」と言いました。

その言葉の通り、生きていれば「苦しみ」はつきものです。

私だって、今も「苦しみ」を感じることはあります。

ですが、「自分は誰にも頼らずに苦しみを溶かすことができる」ということが理解できるようになると、「苦しみ」と遭遇することについて恐れなくなっていきます。

なぜなら、当人は既に、どんな「苦しみ」も味わっていれば、いつかは溶けて消えてしまうということを、我が身をもって知っているからです。

逆に、「苦しみ」を自分でどうにかする方法を知らない人は、いつも怯えながら生きていかねばなりません。

なぜなら、いつまた「苦しみ」が襲ってくるかわからないからです。

そういった人は、「苦しみに対して自分は無力だ」と感じています。

そしてその無力感が、「苦しみ」に対する恐れをさらに強め、当人はますます「苦しみ」を味わおうとはせずに避けるようになっていくのです。

3,日常の「小さな苦しみ」から始めること

ですが、この方法をいきなり「強烈な苦しみ」で試すことは、やめておいたほうがいいと思います。

それが、三つ目のポイントである「日常の『小さな苦しみ』から始めること」です。

なぜなら、あまりにも「苦しみの感覚」が強すぎると、それに圧倒されてしまって、実践をやめてしまう可能性が高くなるからです。

たとえば、「幼少期のトラウマにかかわる苦しみ」などで実践するのは、「苦しみを味わうこと」に十分慣れてからにしたほうがいいです。

一番最初は、ちょっとした胸のモヤモヤとか、ふとした瞬間のイライラとか、そういった「日常的な小さな苦しみ」を味わうところから始めるべきだと思います。

この「苦しみを味わう」という方法は、純粋な「技術」であり、やればやるほど熟達します。

それゆえ、「小さな苦しみ」を溶かすことを続けていけば、やがては「大きな苦しみ」にも向き合えるようになっていきます。

また、実のところ、「小さな苦しみ」というのは「大きな苦しみ」と根っこが繋がっていたりもします。

「大きな苦しみ」のほうが私たちの心の奥のほうにあって、日常的に感じる「小さな苦しみ」というのは、そこから生えてきていたりするのです。

ですから、もしも「小さな苦しみ」を溶かすことができると、自然と、その奥にあった「大きな苦しみ」が表に現れてきます。

その「大きな苦しみ」は、それまで日常の中の「無数の小さな苦しみ」によって覆われていて見えなかったものです。

それが、表層にあった「小さな苦しみ」が溶けたことで、目に見える形で出てきたわけです。

ですから、「小さな苦しみ」を溶かすことを続けていけば、自然と「当人が本当に向き合うべき苦しみ」というのは現れてきます。

そして、そのような「根源的な苦しみ」を溶かし切ることができた時、その奥にあった「純粋な喜び」を当人は感じることができるのです。


ということで、今回は「苦しみを味わう際の三つのポイント」についてご説明しました。

次回は、「苦しみ」を溶かし切って「純粋な喜び」に到達した後、いったいどんな世界が開けてくるのかを書いてみたいと思います。

ではまた次回。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第6回】「純粋な喜び」に留まる際のジレンマ|「執着」と「自由」の選択について