【第4回】「純粋な喜び」に至るためには何をしたらいいのか?

前回の記事で私は、「純粋な喜び」とはどんなものであるかを説明しました。

【第3回】感情が持つ二つの性質と、「純粋な喜び」について

私は記事の中で「『純粋な喜び』には原因がなく、飽きることもない」と書いたわけですが、きっとほとんどの人は、「本当にそんなものあるの?」と思うことでしょう?

そう思って当然です。

実際、私もかつては疑っていました。

そしてだからこそ、「本当にそんなものがあるのかどうか、徹底的に試してみよう」と、かつての私は思ったのです。

そして、自分自身で実践を続けた後で、最終的に私は「それ」を体験することになりました。

今回の記事では、かつて私が体験した「純粋な喜び」に、人はどうやったら至ることができるのかを書いていこうと思います。

ただし、その方法は、決して「楽」なものではありません。

「それでも知りたい!」という方はぜひ最後まで読んでみてください。

◎「純粋な喜び」に至るための方法は「全ての感情に飽きること」

「純粋な喜び」に至るための方法。

それは、「全ての感情に飽きること」です。

私は前回の記事で、「人はどんな感情にもいつかは飽きてしまう」と書きました。

それゆえ、私たちの感情は「永遠にそのまま留まり続ける」ということがありません。

どんな感情にもいつかは終わりが来ます。

たとえば、子どもの頃は楽しかった遊びも、大人になったら楽しめないことってありますよね?

幼い頃は「けんけんぱ」でも楽しかったのに、大人になったらそんなことをやっても何も面白くない。

なぜなら、「やることがわかり切っているから」です。

私たちはどんな体験にも慣れてしまいます。

だからこそ、新しい環境にも徐々に適応していけるわけですが、慣れることで「飽き」を感じたりもするわけです。

また私は、前回の記事で「『純粋な喜び』は私たちの中に最初から埋まっているものだ」と言いました。

それにもかかわらず、私たちがこの「喜び」を感じられないのはなぜでしょう?

それは、他の無数の感情が層となって積み重なり、一番奥にある「純粋な喜び」を覆い隠しているからです。

◎「純粋な喜び」を覆い隠す「感情の層」

たとえば、子どもの頃に親から愛されなくて傷ついた人は、大人になった後も、当時の苦しみが層となって残っています。

それはいつまでもそのまま残り続け、大人になった後も当人のことを苦しめます。

当人は、自分の苦しみを何とかしようとしますが、なかなか苦しみはなくなってくれません。

そうしていつかは苦しみをなくすことそのものを諦めて、仕方なく「生きづらさ」を抱えながら生きていくことになるのです。

こうしたケースだけでなく、私たちの中には「未解決の感情」が層となって積み重なっています。

それらは、ずっと過去のものであるにもかかわらず、今現在の当人に影響を与えます。

そして、これら「層になっている感情」によって覆い隠されることで、その奥にある「純粋な喜び」を私たちは感じることができないのです。

私は前回の記事でこうも書きました。

「『純粋な喜び』とは、『空っぽの状態』である」と。

それはつまり、「感情の層」が完全に取り払われている状態です。

私たちが生まれた時にそうであったであろう「無垢の状態」と言ってもいいと思います。

この状態に至らない限り、「純粋な喜び」を感じることはできません。

「純粋な喜び」を感じるためには、その周りを覆っている「感情の層」を取り除く必要があるのです。

◎飽きることによって全ての感情は消失する

では、いったいどうやって「感情の層」を取り除いたらいいのでしょうか?

実はその答えを私は既にお伝えしています。

私は先ほど、「どんな感情にも人はいつかは飽きるものだ」と書きました。

そして、「飽きてしまった感情」は、たとえどんなに当人が感じようとしても、感じることができません。

つまり、私たちの感情というのは、飽きることによって消失するのです。

であるならば、どうやって「感情の層」を取り除いたらいいかもよくわかるようになります。

それはつまり、「自分に現れた感情を徹底的に味わい尽くす」ということです。

たとえば、「楽しさ」を感じることがあったら、その「楽しいこと」を徹底的に楽しみます。

するといつかはそれに飽きてしまいます。

一度飽きてしまうと、それ以上同じことを繰り返すことに対して、当人はむしろ苦痛を感じるかもしれません。

もちろん、「楽しさ」を徹底的に味わうことは、ほとんどの人が困難を覚えずにできるでしょう。

でも、それがもしも「苦しみ」であったらどうでしょうか?

あなたは「徹底的に苦しみを味わいたい」と自分から進んで思うでしょうか?

そんなことはないはずです。

誰だって、「苦しみ」は避けようとします。

世の中に「楽しさ」を避ける人はいませんが、逆に、「苦しみ」については誰もが避けます。

たとえば、なんとなくイライラしてきた時、人はそのイライラから気を逸らそうとすることがあります。

人によってはスマホをいじって時間を潰すかもしれませんし、好きな映画を観て忘れようとするかもしれません。

しかし、そうやって自分の気を逸らすことで、当人は自分のイライラを味わうことができなくなります。

その結果、そのイライラは解消されず、「感情の層」となって積み重なっていくのです。

それは「未解決の感情」です。

当人はまだそのイライラに飽きていません。

言い方を換えると、自分がなぜイライラするのかを理解していないのです。

◎「なぜか最近イライラする」の根の深さ

私たちがなぜ感情に飽きるかというと、原因と結果の結びつきを直感的に理解できるようになるからだろうと思います。

たとえば、「ゲームをする」ということを原因にして、「楽しい」という結果が生じます。

最初のうちはそれでいいかもしれません。

でも、何度も同じことを繰り返していると、だんだんと当人には「パターン」が理解できてきてしまいます。

「ゲームをする」ということの結果として「楽しい」という感情が湧く、このプロセスの構造全体が当人にはある時、観えてしまうのです。

その結果として、もうそれ以上ゲームを楽しむことはできなくなります。

つまり、「はぁ、またいつものあれか(もう飽きたよ…)」と感じてしまうわけです。

私たちのイライラがなかなか消えないのは、私たちが自分のイライラの原因を自分で理解できていないからです。

あなたにもありませんか?

「なんか最近イライラするな」と感じつつも、どうも原因がわからない。

そういう時、ほとんどの人は遊んだり働いたりすることによって、自分の気を紛らわせようとします。

その結果、いつまで経っても自分のイライラの原因を理解できるようになりません。

そして、それがつまりは、「イライラに飽きることができない」ということです。

日常的なイライラも、実のところその根はかなり深いことがあります。

特に、「全く原因が思い当たらないのにイライラする」という場合、そのイライラは、ずっと昔に目を逸らした苦しみが、今も当人の中に残っている影響であるかもしれません。

ずっと前に傷ついたり苦しかったりしたときに、そこから目を逸らした結果、その感情が解決されずに持ち越されてしまっているわけです。

ですが、繰り返し言いますように、感情が消えるのは「飽きた時=理解した時」であって、たとえどんなに気を逸らしても感情自体は私たちの中で消えずに残り続けます。

もしも本当に感情を消そうと思ったら、「苦しみ」を直視するしかありません。

そして、そんなのは誰でも嫌なので、「純粋な喜び」を体験的に理解している人が世間にはほとんどいないのです。

◎「新たな層ができる速度」と「古い層が消える速度」の競争

このように、感情を味わい尽くせば、当人はそのうちその感情に飽きてしまいます。

そして、感情に飽きることによって、私たちの中にある「感情の層」はほんのちょっとだけ薄くなります。

もちろん、普通に生活していれば、誰だって日々さまざまな感情を抱くものです。

その時、もしも味わい尽くさないで避けた感情があると、それがまた「新たな層」となって当人の中には積み重なります。

ですからこれは、「層を消す」のと「層ができる」のと、どっちが速いかの競争です。

日頃から自分の感情を味わい尽くすようにしている人は、きっと「層が消える速度」が「層ができる速度」に勝ちます。

そうすれば、いつかは「感情の層」が完全に取り払われ、最初からその奥にあった「純粋な喜び」に辿り着けます。

逆に、感情を感じた時にそこから気を逸らす傾向が強い人は、「新しい層ができる速度」が「古い層が消える速度」に勝つでしょう。

結果、いつまで経っても「純粋な喜び」にはたどり着けず、むしろますます自分で自分の感情が理解できなくなっていきます。

もちろん、「楽しさ」のようなポジティブな感情は歓迎しても、「苦しみ」のようなネガティブな感情には触れたくないと思うのが、私たち人間の心理です。

ですが、もしも「純粋な喜び」に到達しようと思ったら、「苦しみ」まで含めて、あらゆる感情に飽きる必要があります。

なぜなら、「苦しみ」もまた、一つの感情だからです。


では、具体的にはどうやって「苦しみ」を味わったらいいのでしょうか?

次回はそのあたりを書いてみたいと思います。

今回はこれで終わります。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について