◎私たちの本質は「理由のない喜び」
前回の記事で私は、「『本当の自分』というのは『意識』のことであり、その本質は『純粋な喜び』である」と書きました。
「純粋な喜び」というと、なんだか「超越的なすごいもの」みたいに感じる人がいるかもしれません。
ですが、この「純粋な喜び」は超越的なものでは決してなくて、むしろ私たち自身の中に最初から備わっているものです。
つまり、「どこか遠くを目指して進んでいって獲得する」というような類のものではなく、
むしろ、「どこまでも内側に潜っていって掘り起こす」という類のものなわけです。
私たちの中には、この「純粋な喜び」が存在しています。
というよりも、私たちの存在そのものが「喜び」です。
「存在する」ということ自体が「喜び」なのです。
そこには、何の理由もありません。
◎私たちは「楽しい感情」を得るために「ゲーム」をする
逆に、「何かをしたから嬉しい」というのであれば、「行動」と「嬉しさ」の間に因果関係があります。
たとえば、ゲームで遊ぶのが好きな人は、「ゲームをする」という行動を取ることによって、「楽しい」という感情が得られることを知っているからこそ、ゲームをします。
「ゲームをする」という行動と、「楽しくなる」という感情の間には因果関係があり、そのことは当人もわかっています。
反対に、何らかの理由で当人はゲームが全然できなくなってしまったとしましょう。
たとえば、親に「勉強しなさい!」と怒られてゲームを没収されてしまったとか、たまたま入社した会社がブラック企業でゲームをする時間も体力もないとか、理由はいろいろあるかもしれません。
いずれにせよ、当人は自分では「ゲームをしたい!」と思っています。
なぜなら、「ゲームをする」という行動を取れば、その結果として「楽しさ」という感情を得られると知っているからです。
だから、その「通路」が塞がれてしまうと、当人は苦しみを感じます。
当人にとって、「ゲームをすることができない」ということは、「楽しさを感じることができない」ということです。
そして、「楽しさ」を得られないことが、当人には「苦しみ」として感じられるわけです。
◎「生きていることへの感謝」にも人は飽きる
このように、私たちの感情には基本的に何らかの因果関係があります。
「ゲームをするから、楽しい」
「ゲームをすることを邪魔されたから、腹が立つ」
そんな風に、まず何らかの原因があって、その結果として感情が現れてきます。
ですが、私がこの記事の冒頭で書いた「純粋な喜び」には、いかなる原因もありません。
なぜだかわからないけれど、存在しているだけで「嬉しい」のです。
ですが、それは別に「生きていることに感謝しましょう」というような話ではありません。
むしろそうであれば、やっぱりその喜びには因果関係があります。
つまり、当人が自分自身で意識的に「生きていることに感謝しよう」と思ったことが原因となって、結果的に「ああ、ありがたいなぁ」という感謝の念が生まれてくる(かもしれない)わけです。
たとえば、とてもまずい料理を食べた後に、いつも家族が作っている普通の料理を食べた場合、当人はいつも以上に家族の料理を美味しく感じるかもしれません。
この時に当人がいつもより美味しく感じるのは、「まずい料理を食べた直後」だからです。
そのように比較対象があるがゆえに、「いつもと変わらない味」がひときわ美味しく感じられるわけです。
「生きていることに感謝する」という場合にも、同じようなことがよく起こります。
たとえば、私は過去にひどいうつ状態になったことがあり、当時は毎日死ぬことばかり考える日々でした。
ですが、時間の経過とともに状態が良くなってきて、「生きているのはなんて素晴らしいのだろう!」と感じるようになったのです。
かつて「地獄のような日々」を過ごしたことがあるからこそ、「何でもないような普通の日々」がその時の私には輝いて見えました。
でも、そのような「輝き」もそう長くは続きませんでした。
なぜなら、人間はどんな感情にも慣れてしまう生き物だからです。
うつ状態から立ち直った私は、すぐにまた日々の生活に退屈し始めました。
かつての生活とは比べ物にならないくらい快適になったはずなのに、その快適さに慣れてしまって、「もっと欲しい」と思うようになってしまったのです。
◎私たちの感情が持つ二つの性質
このように、私たちの感情には二つ性質があります。
すなわち、「感情には原因がある」ということと、「どんな感情にもいつかは飽きる」ということの二つです。
この感情の二つの性質は、いったい私たちに何をもたらすでしょうか?
まず、感情に原因が必要であるがゆえに、私たちは絶えず何かをし続けます。
たとえば、仕事にやりがいを感じている人は、「生きている実感」を感じ続けるために、自分の業務量をどんどん増やしていくかもしれません。
当人はもし仕事を辞めてしまったら、「生きている実感」が得られません。
それゆえ、仕事のし過ぎで身体を壊しそうになっていたとしても、その人は仕事が辞められなくなります。
「生きている実感」を欲するがゆえに、その原因となる「仕事すること」から降りられないのです。
このように、感情には何らかの原因が必要であるため、私たちは「楽しさ」や「充実感」を感じるために、絶えず行動し続けます。
そして、時によってはそうした感情を求めるあまりに、行動がどんどんエスカレートして止まらなくなってしまうこともあるわけです。
また、先ほども書きましたように、私たちはどんな感情にも必ず飽きます。
これは断言してもいいと思っています。
たとえば私は昔、テレビゲームをするのが大好きでした。
時には徹夜で10時間以上プレイすることもあり、身体を壊しかけたこともあるほどです。
ですが、今はもう、かつてのようにゲームにそこまで熱中できません。
なぜなら、「ゲームをプレイする楽しさ」に慣れてしまったからです。
たくさんのゲームをプレイしたかつての私は、新しいゲームをする時にも、だいたいどんな感じのゲームなのかを予想できるようになっていきました。
たとえば、「きっとこの後のストーリーはこう来るんだろう」と無意識に話を先読みしてしまい、物語に没入できなくなりました。
また、「これってあの有名なゲームのシステムをマイナーチェンジしただけじゃない?」というように感じることも増えました。
そうしたことの結果として、プレイしているのは「新しいゲーム」のはずなのに、私は常になんとなく「既視感」を覚えるようになってしまったのです。
私たちが感情に飽きるのは、何度も繰り返し同じ行動をすることで、「パターン」が理解できるようになってしまうからです。
あるいはそれは、「自分が取っている行動」と「その結果として発生する感情」の間の因果関係が、当人に直観的に見えてしまうということでもあります。
たとえば、アマゾンプライムビデオなんかを契約して、いくつか映画を観たとします。
最初のうちは楽しいでしょうけれど、当人はそのうち段々飽きてきます。
まだ観ていない作品がいくらでも残っているにもかかわらず、です。
それは、当人が「映画を観る」ということと「だから楽しい」という感情の間の結びつきを、直観的に理解してしまった結果です。
このような「直観的な理解」が起こると、当人は「自分は同じことを繰り返しているだけだ」と感じ始めます。
それゆえ、「同じことを繰り返し続けること」がつまらなくなって、映画を観ること自体をやめてしまうのです。
◎「純粋な喜び」には原因がなく、飽きることもない
以上のように、私たちの感情というのは、二つの性質を持っています。
一つは「感情には原因がある」ということであり、もう一つは「どんな感情にもいつかは飽きる」ということです。
ですが、私がこの記事の冒頭で書いた「純粋な喜び」には、この二つの性質がありません。
そこには何の原因もなく、飽きるということもありません。
何故かわからないのに溢れてきて、いつまでもそれに飽きることがないのです。
そういう意味では、この「純粋な喜び」は「感情の一種」ではありません。
むしろ、「感情の不在」です。
あらゆる感情が去った後、その「空っぽ」の中で感じられるものは、なぜかわかりませんが「喜び」なのです。
このことはたぶんすごく理解しにくいと思います。
なぜなら私たちは、「何らかの行動をした結果として感情を感じる」という因果関係の図式に、あまりにも深く馴染んでいるからです。
それゆえ、「何の行動も必要とせず、それ自体で感じられる喜び」というようなものはイメージすることが難しく感じられます。
私自身も、今から約2年前に自分でそれを体験するまでは、「そんなものが本当に実在するのだろうか?」と疑っていました。
実際にそれを自分で感じるようになった後でさえ、最初のうちは「結局これも感情の一種なんじゃないの?(そのうち飽きるんじゃない?)」と思っていたくらいです。
ですが、この約2年間、私は毎日「純粋な喜び」を味わい続けていますが、いまだ一向に飽きる気配がありません。
「それ」はあいかわらずここにあり、私はこの「喜び」に留まるために、何の努力も行動も必要としていないのです。
今回の記事のようなことを書くと、「自分もそれがぜひ欲しい!」と思う人が出てくるかもしれません。
そこで、次回からは、どうやって「純粋な喜び」を体験したらいいかについて書いていこうと思います。
「純粋な喜び」を感じるために、私たちは何をしたらいいのか?
そして、その方法の実践にはどんな困難が伴うのか?
そういったことを書いていければと考えています。
ということで、今回はここまでです。
また次回、お会いしましょう。
⇓⇓次回の記事です⇓⇓