「身体的な快楽」に依存しないために|「目」を通じて内側へと潜る「内観法」

私は以前、「自分の苦しみを深く味わえば、その苦しみから解放される」と書いたことがあります。

この技法は、もともと私の師である山家直生さんから学んだものでした。

そして、「苦しみを味わう時には、苦しみについて考えるのではなく、その感覚に意識を集中するとよい」と私は解説したのです。

【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について

ですが、「苦しみに伴う感覚に意識を集中する」というのは、人によってはけっこう難しいことなのではないかと、後になってから思い足りました。

実際、感情というのは、五官を通して感じる純粋に物理的な感覚よりも微妙なものです。

それを自覚的に感じ取ることは、人によっては難しいかもしれません。

ということで、今回は「自分の感情って、どうやったら感じられるのだろう?」と思っている人を対象に、感情への感受性を育てるための技法を、一つご紹介しようと思います。

では、始めていきましょう。

◎先に確認しておいてほしいこと

話を始める前に確認しておきたいことが一つあります。

それは、「あなたは五官を通じた物理的な感覚をはっきり感じることができますか?」ということです。

たとえば、何かに触れる時にその感触をリアルに感じることができるかどうか?

また、ご飯を食べる時に、その味を深く感じることができるかどうか?

そういったことを一度チェックしてみてください。

もしも「触れている物の存在をリアルに感じることができない」とか、「何を食べても味がよくわからない」とかいった場合には、まず先に感覚そのものを深めるトレーニングが必要です。

今回は、「感情」という微妙な感覚に焦点を当てる技法を説明していくので、五官による感覚が曖昧なうちは、ハードルが高いと思います。

なお、感覚を深める詳しいやり方については下記リンク先の記事で詳しく論じています。

【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ

この記事の、5番目の見出しである「◎【呼吸を深めるファーストステップ】感覚を意識的に味わう」をご参照いただければ、感覚を深める方法が理解できると思います。

ということで、ここから先は、「五官を通した感覚はある程度リアルに感じることができる」という人が読んでいることを前提にして、話を進めていきます。

もし「身体をうまく感じることができない」と思うようであれば、まずは上記の記事の「感覚を深めるトレーニング」を優先してください。

◎「見ること」を通して、「身体の外側へと出ていく感覚」をつかむ

ということで、本題に入っていきます。

今回ご紹介しようと思っている技法は、もともとはインドの覚者OSHOが弟子たちに教えていたものです。

ただ、OSHOはあまりにも多くの技法やテクニックを弟子たちに指導していたので、私もそれをどこで読んだのだかはっきりと憶えていません。

ただ、私はOSHOの話を読んだ後、その方法を自分なりに実践してみて効果を実感できたので、今回は私自身の経験に基づいて、それを書いていきたいと思います。

なお、今回の技法は「目」を使います。

といっても、「目」そのものを使うというよりも、「目」を通路として使うようなイメージかもしれません。

そのやり方はこうです。

まず、日常的にしているように、自分の外側にある物体を「目」で見ます。

見る物は何でも構いません。

たまたまテーブルの上に載っていたコーヒーカップでもいいですし、ベランダの植木鉢で咲いている花でもいいでしょう。

ただ、テレビの映像のように動いたり変化したりしないもののほうが、最初はやりやすいと思います。

とにかく、静止している何らかの物体を見ることに集中します。

そして同時に、その「見ている」という感覚に意識を向けます。

もしも身体の感覚が十分に深まっていると、そうして見ている時に、「目」から物体のほうへ「何か」が流れているのを感じるかもしれません。

それは要するに、見ている物体のほうへ「氣」が向いている状態です。

「何を非科学的な!」と言われるかもしれませんが、「目」で見ている時に私たちは、実際に気持ちがその対象に引っ張られています。

それは確かに科学的に検知することはできませんが、体験的には事実です。

たとえば、歩きスマホをしている人は、スマホの画面に「氣」を取られています。

だから、周りへの注意が散漫になって、人や物にぶつかったりします。

また、テレビのドラマに夢中になって食い入るように画面を見つめていると、その当人は身体ごと乗り出していくことがあります。

これはつまり、「氣」に引っ張られて身体まで動いているわけです。

そして、こういう時、当人の主観においても「身体を物理的に引っ張られているような感覚」がしているものです。

スマホで動画を観ることに夢中になった経験がある人はわかるのではないでしょうか?

その時、当人の「意識」はスマホの画面に吸い込まれています。

そしてそこには、「『目』を通して自分がスマホの画面まで出ていっているかのような感覚」があるのです。

「目」というのは非常に不思議な器官で、ここを通して私たちの「意識」は身体から出たり入ったりしています。

そして、自分の外側の物体を凝視する時、私たちの「意識」の焦点はその物体への移動し、主観的には「外側に出ていっている」という感覚が生じるのです。

◎「目」を通って「内側に潜っていく感覚」の習得

この技法の第一段階は、まずこうした「外に出ていっている感覚」をつかむことです。

それは、あたかも「自分の中心」が物体のほうに移動して、そこに固定されているかのような感覚です。

もしもこの感覚がつかめたら、実践は次のステップに進みます。

次は、「外に出ていた意識」を内向きに逆行させるフェイズです。

やり方としては、外側の物体を見つめていた状態から、おもむろに目を閉じます。

そして、「目」を通じて外側の物体を見ていた時と同じ要領で、自分の内側を見るように意識します。

あたかも「目」を入り口にして、身体の中に潜っていくようなイメージです。

これは、慣れないうちは難しいかもしれません。

しかし、「目」を通して「外側に出ていく感覚」がつかめたら、それを内向きに逆行させて、「目」を通して「内側へと入っていく感覚」もつかみやすくなると思います。

それは、「目」を通して外側の物体へと移動していた「何かの流れ」が、内向きに流れ始める感覚を伴います。

「目」を出発点にして、「何か」が内向きに流れ始め、その感覚が身体の中を移動し始めるのです。

この感覚がつかめたら、後は簡単です。

あなたはもう、身体のどこにでも移動することができます。

たとえば、肩に移動することができます。

もしも肩に凝りや痛みがあれば、それを繊細に感じ取ることができるでしょう。

また、手の中に移動することもできます。

そうすれば、誰かの身体に触れる時、その温もりをよりリアルに感じることができるはずです。

そして、感情を観察する時にも、同じ技法が使えます。

たとえば、なんとなく胸がモヤモヤする時、静かに「目」を閉じて身体の内側へと潜っていきます。

胸のあたりに到着すると、そこには「モヤモヤした感覚」があることを感じるでしょう。

それは五官を通して感じる物理的な感覚よりも、微妙で繊細な感覚です。

だからこそ、「感情を観察する」というのは時として難しくもあるのです。

なぜなら、そこには外側の物理的な世界との接点がないからです。

たとえば、触覚は触っている物体と接点を持っており、味覚は舌に触れる食物と接点を持っています。

嗅覚は匂いの元となる物質とつながっており、聴覚は音を発する物理現象と関連しています。

しかし、「目」だけは外向きだけでなく、内向きにも使うことができます。

もしも「目」を閉じることで、外向きから内向きに「意識」を向けかえることができたなら、「物理的な足掛かり」を持っていない感情を子細に観察することができます。

感情が自分の内側でどんなふうに生じ、どのように変化して、最終的にどんな形で消えていくのか。

そういった感情の生滅を、すぐ間近で観察することができるようになるわけです。

◎「サマーディ(至福感)」を感知するためには、十分な観察力が必要

もちろん、「激しい感情」に対しては、このような繊細な技法は必要ありません。

たとえば、「頭が割れそうなほどの苦悩」とか、「怒髪天を衝かんばかりの怒り」とか、そういった感情はわざわざ丁寧に「感じよう」とするまでもなく、自明なものでしょう(まあ、往々にして私たちはそれに圧倒されてしまうため、結局、落ち着いて感情を観察することは難しいのですが)。

反対に、「なんとなく胸がモヤモヤする」とか、「なんだか落ち着くことができない」とかいったような「日常的な感情の揺らぎ」については、自覚的に感じようとしないとうまく観察することが難しかったりもします。

特に、「瞑想の実践」や「苦しみの受容」などによって生じる「ニルヴィカルパ・サマーディ(原因のない至福感)」は、自身の感情に対する観察力が十分に育っていないと、見逃してしまう可能性が高いです。

実際、自分の内側を丁寧に観察する力がないと、せっかく「サマーディ(至福感)」が起こっても、知らずに通り過ぎてしまうかもしれません。

逆に、常日頃から自分の内側を丁寧に観察する習慣が身に着いていると、「サマーディ」が生じた時、それに気づくことができます。

それは「穏やかで心地よい感覚」であり、決して「強い刺激」ではありません。

それゆえ、心が「強い刺激」に慣れてしまっていると、「サマーディ」は大したことのないもののように感じてしまいやすいものです。

そういう意味で、今回ご紹介している技法は、「至福」に留まる際にも役に立つ技法と言えます。

つまりこれは、あくまで一時的なものでしかない「身体的な快楽」を離れ、「持続的で原因のない至福感」を感知するための技法でもあるということです。

◎依存症とは、「質」ではなく「量」によって支配される病である

そもそも、私たちがどうして「身体的な快楽」を追い求めてしまうのかと言えば、私たち自身の感覚が鈍感になっているからです。

感覚が鈍くなっているからこそ、「もっと強い刺激が欲しい」と思うのであり、そうして「強い刺激」に慣れてしまうことで、「前と同じ刺激では満足できない」という依存症のルートへと人は入っていってしまいます。

「快楽への依存」を断ち切る際の有効な手段の一つは、「一つ一つの体験をじっくり味わうようにする」ということです。

そもそも、依存症の人はたくさんの快楽を摂取しても満足できなくなっています。

感覚が刺激に慣れ切ってしまっているため、「量」をたくさん取らないと満足感を感じられないのです。

こういう場合に「量」をどんどん増やし続けると、ますます感覚は鈍くなって、もっと多く「量」を摂取しないと満足できなくなって行きます。

このような方向性に対抗するためには、「量」ではなくて、「質」を大事にすることが重要です。

それがつまりは、「一つ一つの体験をじっくり味わうようにする」ということです。

たとえば、ダイエットのテクニックの一つに「よく噛んで味わって食べる」というものがあります。

これは、「食べる」という行為を丁寧におこなうことによって、その体験の「質」を深め、満足感を高めるテクニックです。

実際にやるとわかりますが、丁寧に食べると、「いつもより少ない量」で満足感を感じるようになります。

お腹がパンパンになるまで食べることはなくなり、腹八分目で自然と食べることをやめられるようになるのです。

逆に、テレビやスマホを見ながらご飯を食べると、当人は十分に満足感を感じることが難しくなります。

ここにおいて当人は「食事」という行為を味わっておらず、それゆえに、心身が満足しないのです。

そのため、「ながら」で食事をする人は、「量はたくさん食べているのにいまいち満足感がない」ということになりがちです。

結果として、無意識のうちにたくさん食べ過ぎてしまい、お腹がパンパンになるまで食べることをやめられなくなってしまうのです。

これもまた、「質」よりも「量」を優先した結果と言えるでしょう。

◎「快楽」を振り切って「至福」の内に留まるために

体験の「質」を高めるためには、「感受性」が必要不可欠です。

そして、「感受性」は私たちが意識的に「感じよう」とすればするほど伸びていきます。

また、「感受性」が育っていくことによって、当人は自然と依存症から遠ざかることができます。

なぜなら、「感受性」が豊かな人は「少ない量」で満足することができるので、必要以上に「快楽」を追い求めたりしなくなるからです。

真理の探求においては、せっかく辿り着いた「至福感」に留まるのが難しく感じることが多いものです。

というのも、「至福感」は決して「強烈な快感」ではないからです。

それは「柔らかな陽光」のように温かく穏やかなものであり、「身体的な快楽」のような強い刺激は持っていないのです。

それゆえ、もしも「快楽への依存」が残っていると、当人はそっちに「氣」を引っ張られやすくなります。

そして、当人は「至福感」から再びふらふら彷徨い出し、迷子になってしまうわけです。

そうならないためには、「快楽への依存」から自由になっている必要があります。

主体的に意識しなくても簡単に耽溺できるような「快楽」ではなく、意識的に噛み締めることで深い味わいが染み出してくる「至福感」をこそ求めるように、「感受性」を向けかえていくのです。

今回の技法は、そのような「方向転換」のために、きっと役に立ってくれると思います。

◎終わりに

いかがでしたでしょうか?

今回は、「目」を通じて自分の内側を感じる「内観法」のご紹介でした。

現代人の多くは、タイパやコスパばかり気にして、体験の「質」というものを軽視しがちです。

費やすコストや時間の「量」を少なくし、手に入れるリターンの「量」を最大化することに、誰もが必死になっています。

ですが、もしも「質」という側面を無視するならば、どれだけ「量」を手に入れても、当人は満足することができないでしょう。

それに、「人が心から満足できる量」というのは、けっこう少なくて済むものです。

多くを求める「渇いた心」に苦しんでいる人は、ぜひ「感受性」を育てて体験を味わってみてください。