◎「無執着」は「至福へ至るための手段」ではなく、「至福の定義」そのものである
「真理の探求」についての連載が終わって一発目の記事ということで、今回は「執着」について掘り下げていこうと思います。
「執着」については、連載の中でも何度か言及したことがあるので、記事を読んでくださった方は、既になんとなくイメージを持っているかもしれません。
特に、「純粋な喜び(ハートの感覚)」について書く中で、私は「執着」のことをピックアップして解説したことがあります。
【第6回】「純粋な喜び」に留まる際のジレンマ|「執着」と「自由」の選択について
【第6.5回】「純粋な喜び」に執着する必要はないことについての解説
実際、もしも「無執着」に留まれば、その時には「穏やかな至福感」が自分の内側から湧き出てくることに、当人は気づくことになるでしょう。
しかし、ここで問題になるのは、「無執着」というものが、主体的に求めて達成することのできるものではないということです。
世の中の導師たちは、しばしば弟子たちにこう言います。
「『無執着』で在りなさい。そうすれば、あなたは『至福』を見つけるだろう」と。
それを聞いた弟子たちは、「生きることはあまりに苦しい。もしも『至福』を得られるのなら、自分は絶対それが欲しい!」と考えます。
ですが、そのように考えている限り、「至福」が当人の中で花開くことはあり得ません。
なぜなら、「至福を得たい」という欲求そのものが、どこまでも「執着」として残り続けるからです。
多くの導師は、上記のように「『無執着』で在りなさい。そうすれば『至福』が得られる」と言うのですが、私はこの表現に問題があると思っています。
というのも、「至福」というのは「無執着」の結果として起こるものと言うよりも、「無執着」そのものが「至福」を意味していると言ったほうが、実情には即していると思われるからです。
もしも「『無執着』に留まりなさい。そうすれば『至福』が得られる」というような言い方をしてしまうと、聞いた側はまるで「無執着」こそが「至福」に至るための手段であるかように勘違いしてしまいます。
しかし、実際には「無執着」というのは「至福に至るための手段」というより、「至福の定義」そのものです。
つまり、「『無執着』という道を通れば『至福』に到達できる」と言うのではなく、「人が真に『無執着』に留まっている時、その状態を『至福』と呼ぶ」とでも表現すべきだと思うのです。
逆に、もしも「無執着」を「至福」に至るための手段だと思っていると、先ほども上のほうで少し書いた問題が、永遠に当人につきまとうことになります。
その問題というのは、要するに「『至福』を得たい」という欲求が「執着」となって残り続け、いつまで経っても純粋な「無執着」に至れないということです。
しかし、往々にして当人はそのような自己矛盾に気づいていません。
「自分は『この世の価値』を諦めて、『真の価値』を目指して修練している」と思い込んでいます。
場合によっては、瞑想法や呼吸法などの技法を熱心に実践しているかもしれませんし、導師に金銭を寄付しているかもしれません。
そして、当人はそうした自分の行為によって、「私は『この世の価値』に対する『執着』を捨てた。成就の時はもう近い」と内心で感じていたりします。
しかし、それもこれも、全ては「至福」を得たいがための行為です。
「至福を得たい」という「執着」はいまだ当人の中で持続しており、むしろそれが「この世の価値」への欲求でない分だけ、当人には自覚しづらいものとなっています。
その結果、当人は自身の内側にある「無執着にぜひとも至りたい」という「執着」を見逃し続けてしまい、「至福」に到達することもないわけです。
◎飽きるまで行為に没頭することで、当人の「欲求の根」は枯れる
このように、「無執着=至福」に至る際には、「執着をなくそう」と思って意図的に行為しても失敗します。
「無執着」というのは意図的にこしらえることのできるものではないので、結果的に現れるようにする必要があります。
つまり、「執着」を捨てようとするのではなく、逆に、とことん「執着」し尽くすのです。
たとえば、「やりたいこと」があるのであれば、我慢しないでとことんやってみます。
もしもここで、「いやいや、『執着』はよくない。今は我慢しなければ」と思っていたら、「執着」は消えないどころか強化されてしまうでしょう。
だったらいっそ、思い切りやってみたらいいのです。
もしもとことん行為の中に飛び込んだなら、当人はそのうち飽きてしまいます。
たとえば、どんなにゲームが好きな人も、ずっとプレイし続けているといつかは飽きます。
そして、次から次に新しいゲームに乗り換えていっても、いつかは「ゲームをすること自体」に飽きる時が来ます。
こうなってしまったら、当人はもうゲームを続けることができません。
なぜなら、当人はもう、どんなゲームをやっても楽しいとは感じなくなってしまっているからです。
こうなってしまうと、もしも誰かから「ゲームをやれ!」と言われても、当人からすると苦痛ですから、「やりたくない」と感じるはずです。
それゆえ、当人は誰かから言われるまでもなく、「ゲームへの執着」を手放すことができるのです。
本当の意味での「無執着」というのは、このようにして起こります。
それは、当人が本当に飽き飽きしたことによって、「欲求の根」そのものが枯れることによって、初めて実現するのです。
◎「カルマが浄化される場合」と「カルマが積み増しされる場合」
ちなみに、探求の世界では、こういった状態になることをもって、「カルマが浄化された」と表現することがあります。
「カルマ」というのは「業」と訳されますが、要するに、私たちを衝き動かす感情的なエネルギーのことです。
たとえば、もしもゲームに関する「カルマ」が当人の中に残っていると、その人は「もっとゲームをしたい!」という欲求を抱きます。
そして、その欲求に従って「ゲームをする」という行為に身を委ねるなら、何かしらの結果がもたらされます。
人によっては、ものすごく熟達してプロゲーマーになるかもしれませんし、場合によっては、ゲームのやり過ぎで社会生活が破綻するかもしれません。
このように、「ゲームをしたい」という欲求を原因として、「ゲームをする」という行為が促され、最終的に「プロゲーマーになる」とか「社会的に身を持ち崩す」とかいった結果が当人にもたらされます。
このようにして「原因➔行為➔結果」という円環をグルグル回り続けることで、「カルマ」は時に積み増しされたり、逆に浄化されてなくなったりするのです。
なお、カルマが積み増しされる時というのは、たとえば、「自我(エゴ)」が刺激されるような場合です。
このケースは、先ほど上で書いたような「楽しかったゲームに飽きて楽しく感じなくなった」という場合とは、違った結末を迎えます。
たとえば、オンラインゲームをプレイするようになった人が、何かの拍子に他のプレイヤーから褒められたとします。
相手が「それ、すごくいい装備ですね!」と褒めてくれたり、「この間のイベントでは手伝ってくれてありがとうございました!」とお礼を言ってくれたりしたわけです。
そういう場合に、もしも当人の中にもともと「満たされない想い」があった場合、こういった他のプレイヤーとの交流に深く依存してしまう可能性があります。
そうなると、当人は次第に「もっと褒めてほしい」「もっと自分を必要としてほしい」と望むようになり、プレイ時間や課金額がどんどん増えていくかもしれません。
これは「カルマ」が積み増しされてしまうパターンです。
つまり、「ゲームをやりたい」という欲求がより一層強まってしまい、「原因(欲求)➔行為(ゲームプレイ)➔結果(ゲームへの依存)」のループが、ゲームをすればするほど強化されていってしまうのです。
◎「この満たされなさを埋めたい」という根源的な「カルマ」
たとえこのような仕方でゲームをしても、「カルマ」が浄化されることはありません。
ゲームをプレイすればするほど当人は余計にもっとプレイしたくなり、いつまで経ってもゲームに飽きることができなくなるのです。
こういったケースで当人がゲームをやめる時というのは、不意に当人にとって全てが虚しく感じられた場合です。
たとえば、寝食を忘れてプレイし過ぎて身体を壊してしまったり、課金のし過ぎで返しきれないほどの借金を抱えてしまったりしたような場合がこれに当たります。
こうした事態に直面すると、当人はふとした瞬間に我に返って、「何を馬鹿なことをしていたんだろう…」と気づくわけです。
しかし、だからといって「カルマ」が浄化されるわけではありません。
なぜなら、当人の中に在った「満たされなさ」が埋まったわけではないからです。
おそらく当人はもうゲームをすることに懲りてしまって、ゲームのプレイには前ほど熱心に向かわなくなるでしょう。
しかし、それは「執着」が消えたからではなく、「ゲームでは自分の心は埋められない」ということがわかったからに過ぎません。
そもそもこのようなケースの場合、当人は「ゲームが好き」なわけではなく、ゲームをしていると他人から認めてもらえるからプレイしていただけに過ぎないのです。
そういう意味では、「自分の心の隙間を埋められる」のであれば、手段は何でもよかったとも言えます。
だからこそ、当人はたとえゲームをやめることができても、またすぐに他の何かに依存し始めることになりがちです。
人によってはお酒に溺れるかもしれませんし、恋愛やセックスに依存するようになるかもしれません。
いずれにせよ、自分の中に在る「無価値感」や「空虚感」から目を逸らせる何かを、当人は探し続けるはずです。
この場合、当人の本当の「カルマ」は、「ゲームがしたい」という感情エネルギーに根を持ったものではなく、「この虚無感を何かで埋めたい」という切実な欲求に根を持つものです。
もしこれが、単純にゲームが好きでゲームをしている人であれば、とことんプレイすることでそれに飽きることが可能です。
ですが、「虚無感を何かで埋めたい」と思っている人は、ゲームをいくらプレイしても、その「虚無感」を埋めることができません。
むしろ、何とかしてその「満たされなさ」を埋めようとして、あらゆるものに依存するようになっていくのです。
◎「満たされなさ」を本当に埋めるためには、自身の「虚無感」と向き合うしかない
ではどうすればいいかと言うと、
ひたすら「虚無感」を味わうことが、唯一の出口です。
「うへー、そんな残酷な…」と言われそうですけれど、これは本当のことです。
なぜなら、もしも「虚無感」から逃げ続けると、当人は次々に新たな対象に依存し続けるようになるからです。
当人は自分の「虚無感」をできれば直視したくありません。
だから、それを直視なくて済むように、ゲームやお酒やセックスなどに依存するようになっていくのです。
しかし、いくら依存をしたとしても、「虚無感」が消えることはありません。
もしも自身の「カルマ」を浄化したいと思ったら、その「虚無感」に飽きるまで、徹底的にそれを味わい尽くすしかないのです。
つまり、「苦しみの受容」です。
これについては、過去に連載の中でも記事を一つ割いて、具体的な方法を論じたことがあります。
多くの人は「苦しみ」を何とかして避けようとしますが、実際には、避けようとすることで「苦しみ」を延命させてしまいがちです。
しかし、「楽しいこと」に飽きるのと同じように、「苦しいこと」にも私たちは飽きることができます。
それゆえ、もしも本当に「苦しみ」を終わらせようと思うなら、「苦しみ」を飽きるまで味わうより他にないのです。
そして、結局のところ、これこそが「無執着」に至るための唯一の道でもあります。
そもそも、何であれ私たち自身が飽きない限り、「カルマ」は残り続けます。
そうして、この「カルマ」が当人を終わりなく「行為」へと誘い続け、当人はその結果として「苦しみ」を受け取り続けるのです。
◎「本当に求めていたもの」は、最初から既に在ったもの
そういう意味では、「無執着」というのは簡単に実現できるものではないとも言えます。
でもそれは、「したいことを我慢してしないようにしなければならないから」ではありません。
「したいこと」は思いきりしていいんです。
そうすれば、いつかは飽きてしまいます。
それはむしろ、「無執着」に至るために推奨されるでしょう。
しかし、「したいこと」だけしていればそれでいいという話でもありません。
というのも、もしも「無執着」を目指すなら、遅かれ早かれ当人は、「そもそもなぜ自分には『執着』というものが生じるのか?」という問いを、自分に向かって突きつけなければならなくなるからです。
「なぜ自分の心はこんなにも満たされないのだろう?」
「どうしてこれほど誰かに愛してほしいのだろう?」
そういった問いを真正面から受け止め、そこから生まれてくる苦しみを最後まで受容することで、初めて「カルマ」は浄化され、当人は「無執着」に至ります。
その時当人は、自分がいったい何を求めて苦しみ続けてきたのかを理解するでしょう。
そして、「求めては苦しむ」という終わりのないパターンの中を自分がいつまでもグルグルと回っていたことを理解して、当人は自分で自分を笑うようになるのではないかと思います。
その時、おそらく当人は自分が「至福」の中にいることを発見します。
「本当に求めていたもの」は、実は最初から在ったのです。
ただ、「求めること」に必死過ぎて、当人にはそれが見えなくなっていただけだったのです。
◎「無執着」を実践することなく、「執着」の中に飛び込むこと
このように、「執着」を手放すというのは、一朝一夕でできることではありません。
ただ、私が憶えておいてほしいことは、「『無執着』というものは実践できない」ということです。
世の中の多くの人は、この点で大きな勘違いをしています。
食べたいものを我慢して、行きたいところへあえて行かず、したいことを避け続ける。
多くの人は、そうすることが「無執着の実践」だと思い込んでいます。
ですが、そんなことをしても、かえって「執着」を強化してしまうだけです。
我慢した分だけ、どこかで必ず反動が来ます。
だから、「無執着」に至るためには、「行為を我慢する」のではなく、むしろ「行為の中に飛び込むこと」のほうが大事です。
そうすれば、あなたはきっとそのうち全てに飽き飽きしてしまいます。
そして、あらゆる行為に飽きた後になおも残る「苦しみ」にさえ、正面から向き合い続けていれば、私たちはいつか飽きるものです。
そうしてその時、「無執着」は自ずから成就され、あなたは「至福」の中に定まる自分を発見することになるでしょう。
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