「善」と「悪」の鎖を断ち切る方法|「無分別」に至るために「事実」に留まることの意味

◎「わかった気」になりたがる私たち

今回の記事では「分別(ふんべつ)」という言葉について考えてみたいと思います。

「分別」というのは、もともとは仏教の言葉で、物事を二元的に分割して考えることを意味します。

たとえば、「善」と「悪」、「自分」と「他者」、そして「成功」と「失敗」などですね。

そして、そのようにして物事を二つに分けると、人はたいてい、「こっちが正しくて、こっちが間違っている」という判定を下します。

これを避けることはなかなか難しいです。

なぜなら、私たちは絶えず「世界」を二つに分割しては、「こっちが良くて、こっちは悪い」と言い続けているからです。

しかし、どうして私たちは「分別」することをやめられないのでしょう?

それは、「分別」によって物事を二つに分割すると、それによって「世界の見え方」が単純化できるからではないかと思います。

「世界」というのは一見すると非常に複雑に思えます。

様々な人や物事が絡まり合い、それぞれの思惑で動いているように、私たちには見えるのです。

しかし、そういう時に「こっちが正しくて、こっちは間違っている」というシンプルな区切り方を導入すると、「世界」を理解したような気分を得やすくなります。

物事を考える際の「知的な負荷」が少なくて済むのですね。

たとえば、「中国人は全員悪人だ!」とひとまとめにしてしまうと、「そんなに悪人でもない中国人」の都合を考えなくてよくなります。

また、自分が実践している方法論について「これが唯一絶対の方法だ!他の方法は全部間違っている!」と信じていると、自分の方法論が抱えている欠点や限界について、考える手間が要らなくなります。

そして、人間というのは基本的に「楽」をしたがる生き物です。

だから、「知的な負荷」をなるべく減らして「楽」をしたいがために、「分別」をなかなかやめることができないのです。

◎「道徳的な人」と「不道徳な人」は、同じコインの裏と表

でも、それなら「分別」をやめるというのは、いったいどういう状態を目指すことなのでしょうか?

それについて、OSHOという覚者が面白い説明をしています。

OSHOは道徳について考える時、三つの種類があると語ります。

それは「道徳」「不道徳」「無道徳」です。

「道徳」というのは、いわゆる「道徳的な在り方」です。

「社会のルールは守りましょう」
「他人には親切に接しましょう」

それらを守っていれば、その人は「道徳的な人」と判定されます。

逆に「不道徳な人」というのは、泥棒や殺人犯などです。

彼らの中には、「道徳」に反することをしたい強い欲求があります。

そして、その欲求があるからこそ、犯罪を犯すこともあるわけです。

こう書いていくと、「道徳的な人」と「不道徳な人」とは正反対なようにも見えます。

確かにその振る舞いは正反対なのですが、深いところで両者は結びついています。

たとえば、「道徳的な人」は道徳的に振る舞うこと(社会のルールに従うなど)を「善」としており、不道徳な振る舞い(犯罪など)をすることは「悪」だと思っています。

逆に、「不道徳な人」は、道徳的に振る舞うことが社会的に「善」だとされていることを知ってはいますが、彼らにとって「本当にしたいこと」は犯罪などの不道徳な振る舞いのほうです。

ということは、「不道徳な人」にとっての「善」とは、実は不道徳な振る舞いのほうとは言えないでしょうか?

「犯罪を犯すことが『善』なわけないだろ!」と言われそうですが、それは「道徳的な人」の見地に立っているからこそ言えることです。

犯罪こそが「本当にしたいこと」である「不道徳な人」にとっては、犯罪を犯すことは自分にとって「よいこと」です。

「不道徳な人」も主観的には自分にとって「よかれ」と思って、犯罪を犯します。

そういう意味では、「不道徳な人」も自分にとって「よいこと」をしているわけなのです。

つまり、「不道徳な人」というのは、「道徳的な人」と「善」と「悪」との基準がひっくり返っているだけです。

「不道徳な人」な人にとって、「善」とは「犯罪を犯すこと」であり、「悪」は「警察に捕まること」です。

犯罪を無事にやりおおせれば、彼らにとってそれは「成功」であり、もしも警察に捕まった場合、彼らにとってそれは「失敗」になるのです。

ここに「分別」の構造があることは、たぶんわかってもらえるのではないかと思います。

「道徳的な人」は社会のルールに従って生きることができれば「成功」で、社会のルールからはみ出してしまったら「失敗」と判断します。

逆に、「不道徳な人」は社会のルールに逆らって犯罪を犯せたら「成功」で、社会のルールに縛られて捕まったら「失敗」です。

両者は「成功」と「失敗」の基準がひっくり返っているだけで、実際にはコインの裏と表のような関係にあります。

だからこそ、「道徳的な人」がいつ「不道徳な人」に変わるか誰にもわかりません。

それは、一枚のコインが表から裏にひっくり返るくらい、簡単に起こりうることです。

そして、両者はそれぞれに「成功」と「失敗」の狭間に囚われて束縛されています。

なぜなら、どちらも絶えず「自分にとっての成功」を求め続け、「自分にとっての失敗」を避け続けようとするからです。

◎「天国」も「地獄」も作り出さなければ、そこに本当の解放がある

たとえば、「道徳的な人」は「社会のルール」によって自分が束縛されていると感じることがあります。

いつも「道徳的」でなければ「失敗」してしまうので、窮屈に感じて仕方ないわけです。

逆に、「不道徳な人」は警察の目をかいくぐらなければならないので、いろいろと不便な経験をします。

警察に捕まったら「失敗」なので、それが窮屈に感じるわけです。

このため、「分別」をし続ける限り、束縛からは逃れられません。

「分別」をすることによって、私たちは絶えず「成功」と「失敗」を作り出し、「天国」と「地獄」の間で引き裂かれます。

そして、誰もが「天国」に行きたがり、「地獄」には決して行きたがりません。

「どうしても『天国』行きの切符が欲しい」

こういった想いは「執着」となって当人を束縛し続けるため、彼/彼女は解放感を感じることができないのです。

それに対して、OSHOは第三の立場を提唱します。

それが「無道徳」です。

「無道徳な人」は、道徳的な見地からも、不道徳な観点からも物事を判定することをしません。

たとえば、もしも彼が泥棒をしている人を見つけたとしても、彼はその時「あの人は泥棒だ」とだけ言います。

これがもし「道徳的な人」であれば、「あの人は泥棒だ」とは言わず、「あの人は悪人だ」と言って心の中で無意識に断罪するでしょう。

逆に、「不道徳な人」であれば、「あの人は泥棒をしているから自分と同類に違いない」と考えるかもしれません。

このように、「道徳的な人」は泥棒のことを無意識に「敵」だと考え続け、「不道徳な人」は「味方」だと見なします。

目の前の泥棒という一人の人間を、「敵」と「味方」に分割して、場合によっては攻撃し、時には迎え入れたりするのです。

しかし、「無道徳な人」はこういった仕方で物事を分割したりしません。

「彼は泥棒だ」と言って、それで終わりです。

ただ「目の前の事実」だけを見て、そこに「価値判断」を持ち込まないのです。

たとえば、ダイエットをしている人にとっては、食欲に負けて食べ過ぎてしまうのは「失敗」を意味することでしょう。

逆に、体重が減っていたら「成功」だと感じるかもしれません。

でも、そもそもダイエットに無関心な人は、多少食べ過ぎてもそれを「失敗」だとは感じませんし、体重がいくらか減っていても気づきもしないかもしれません。

そういう意味では、そこに何らかの関心を持っている人だけが、「執着」をするのだとも言えるでしょう。

そして、「無道徳な人」は道徳に「執着」していません。

「社会的なルール」を絶対視もしていませんし、「犯罪は絶対に悪だ」とも思っていません。

彼の目からすると、泥棒は「善人」でも「悪人」でもなく、「敵」でも「味方」でもありません。

泥棒はただ、「泥棒」であるだけです。

これが「無道徳」の立場です。

そこには対立を作り出す分割はなく、「分別」も存在していません。

そしてだからこそ、彼はあらゆる束縛から自由です。

彼は「道徳的に振る舞わなければ」と思って自分を束縛することはありませんし、「常に警察の目を欺かなければ」と思って怯えることもありません。

たとえどのような結果になったとしても、彼はそれを受け入れるでしょう。

そこに「束縛からの解放」の鍵があります。

◎白隠禅師が示した「無道徳」という在り方

そういえば、確か白隠禅師のエピソードだったと思いますが、こんな話があります。

白隠禅師の寺の近くにある村では、彼はとても有名で、非常に尊敬されていました。

「彼は高潔で立派な人だ」と、誰もが認めていたのです。

しかしある時、村で事件が起きます。

村に住んでいる一人の若い娘が、父親のわからない子どもを妊娠したのです。

しかし、その娘自身にだけは「本当の父親」が誰かわかっていました。

ただ、彼女はその「本当の父親」をかばうために、彼の名前を出すのを避け、「この子の父親は白隠禅師だ」と言ったのです。

すると、それを聞いてカンカンに怒った娘の父は、白隠禅師の元に行って彼を散々罵りました。

そして、まだ生まれて間もない赤ん坊を白隠禅師につき出すと、「お前の子どもだ!ちゃんと面倒を見ろ!」と言い放ちました。

すると白隠禅師はそれを否定するでもなく、「そうですか、この子は私の子なのですか」とだけ言って、泣き続ける子どもをあやし始めたそうです。

その後、噂は瞬く間に村全体に広がりました。

つい先日までは「誰もが尊敬する聖者」だったのに、いまでは「軽蔑すべき大罪人」です。

白隠禅師は赤子をおぶったまま村に托鉢に行きますが、誰も戸を開けてはくれません。

そして、最終的に、彼はその赤子の母親である娘の家に行きつきます。

「私のことは構わないから、どうかこの子に乳をあげてほしい」と白隠禅師は頼みました。

すると、戸の向こう側で泣く我が子の声に耐えられなくなったその娘は、とうとう「真実」を語ったのです。

「本当の父親は別にいる!あの子の父親は白隠禅師ではない!」

それを聞いて、父親は真っ青になって驚きました。

そして、娘の父親は即座に戸を開けて禅師を迎え入れ、「どうか赤子を返してほしい!その子はあなたの子ではないのだ!」と言って、赤ん坊を返してくれるよう頼んだそうです。

ですが、その時も白隠禅師は特に気するわけでもなく、「そうですか、この子は私の子ではないのですか」とだけ言って、赤ん坊を娘に返しました。

すると村全体がまたもやひっくり返ります。

ついさっきまで「大罪人」だったのに、今では「潔白な聖者」です。

人々は口々に非礼を詫び、「どうか許してほしい」と白隠禅師に懇願したと伝わっています。

◎「事実」と「判断」を分けて考える重要性

この話を聞いて、「白隠禅師という人は実に立派で高潔な方だったのだな」と思ったとしたら、今回の話のポイントを逃しています。

なぜなら、白隠禅師はあくまでも「無道徳」を体現していたのであって、別に意識して「道徳」を実践していたわけではないからです。

実際、このエピソードは「無道徳」というものについて考える上で、非常に示唆に富んでいます。

村に住んでいた「いわゆる道徳的な人たち」は、手のひらをクルクルとひっくり返しては、白隠禅師への態度をコロコロと変えていきます。

でも、当の白隠禅師はそんなことにはお構いなしです。

どのような結果が訪れても、ただ「目の前の事実」しか見ていません。

これこそが「無道徳」という在り方です。

「道徳」にも「不道徳」にも縛られず、それゆえ、いかなる結果にも束縛されないのです。

「いや、理屈はわかるけどさ、そんなの実際に体現するのは難しいよ」と言いたくなるのは、私もよくわかります。

ですから、別に「白隠禅師のようなレベルで『無道徳』であれ!」とまでは、私も言いません。

ただ私は、「分別しない」ということがどういうことなのかを理解してもらいたくて、このエピソードを引いたのです。

もたらされる結果によって束縛されずにいるためには、「分別しない」ということが重要です。

そして、「無分別」を実現するためには、「価値判断」と「事実認知」を分けて考える必要があります。

たとえば、先ほどの泥棒の例で言えば、「あの人は泥棒だ」という発言は、単に「事実」を言っているだけですが、「だから、あの人は悪人だ」というところまで行ってしまうと、「価値判断」にまで踏み込んでいます。

あなたにもそういうことがないでしょうか?

たとえば、他人の話を聞いている時、相手の言っている主張について「正しい」「間違っている」といった判断を、まだ話が終わっていない段階で下してしまうことが私たちにはよくあります。

そして、もしも「この人の言っていることは正しい」と思っていると、私たちは相手の主張をよく理解していなくても「賛成!」と言って歓迎します。

逆に、「この人の言っていることは間違っている」と思っていると、「どこかに論理のほころびが無いか」と、無意識にアラ探しするのをやめられなくなります。

そして、こうした態度を取る限り、どちらにしても相手の言っていることを正確に理解することは妨げられるでしょう。

たとえば、「この人の言うことは正しい」と思い込んでいる人は、話を細かいところまで聞きませんし、「この人の言うことは間違っている」と思い込んでいる人は、相手の主張の中にある「理に適っている部分」を無自覚に無視してしまいます。

そういえば、最近はテレビや新聞などのマスメディアで偏向報道が騒がれるようになっていますが、
それは、マスメディアに携わる人々が、「事実」を見る前に「価値判断」を差し挟むからです。

つまり、政治家や芸能人が言ったことをただそのまま報道するのではなく、それを「脚色」してしまうわけです。

自分たちから見て「良い」と思ったら持ち上げるし、「悪い」と思ったらこき下ろすことを自制できない。

本来、「事実」をこそ伝えるはずであるマスメディアの人々でさえ、「事実」の段階に留まることは難しいわけです。

ですが、それでも「事実」を意識することは可能です。

いったいどこまでが「事実」であり、どの時点からが「分別」なのか?

日常的にこの問いを自分に向けることによって、徐々に「無分別」というのがどういうものか理解できるようになっていきます。

そして、「無分別」であって初めて、私たちは自分を束縛しなくなります。

実際、「無分別」の中においては、「成功」も「失敗」もなくなっていきます。

そうして当人は、「成功」を求めて走り続けることから進んで降りるようになり、「失敗」を恐れて怯え続けることもやめることができるようになっていくのです。

人は誰しも「善」を求めて生きるものですが、当人の中に「善」がある限り、「悪」が消えることはありません。

「天国」と「地獄」は、両方とも私たちが自分で自分の中に作り出す「幻」です。

それゆえ、もしも「絶対的な善」というものが在るとするなら、それは、「善」と「悪」の両方から自由になった時にしか実現できないものだと言えるでしょう。

そして、いわゆる「善」や「悪」という観念を離れるためには、「無分別」に留まることが必要不可欠なのです。

◎【終わりに】「絶対の成功」も「絶対の失敗」も無いと知ること

なんらかの「成功」を追い求め続けることに疲れた人や、常に「失敗」に怯え続けている人は、「事実」に留まる練習をしてみてください。

たとえば、「この学校に進学できないと自分は終わりだ」と思っていると、合格だけが「人生における成功」になり、不合格は「人生を失敗すること」を意味することになります。

ですが、合格も不合格も、どちらも「ただの事実」に過ぎません。

それを、「合格だけが唯一絶対の成功だ」と思い込む時、当人は自分を束縛し始めるのです。

こういった束縛は、日常の中にたくさん存在しています。

多くの場合、私たちは自分が自分のことをどれだけ束縛しているかに、気づいていません。

ですが、たとえ「成功」をどれだけ追い求めても、それによって「幸せ」になれるとは限りません。

むしろ、「成功」を渇望し過ぎるがゆえに苦しんでいる人は多いでしょうし、「自分は人生に失敗した」と思って絶望している人もいるでしょう。

もしも「成功」と「失敗」の両方に対して「無執着」であることができるなら、その時、当人は自由です。

そして、そんな風に「成功」と「失敗」の両方から離れ、束縛から自由になることのうちにこそ、「本当の幸福感」はあるのではないかと、私自身は思っています。


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